2016年12月 3日 (土)

ぶっ飛んでた江戸時代の女流画家 玉蘭

 この日も又、フラフラ。相棒をデイケアーに送り出してフラフラ。無料パスで「真如堂」下車。いつもは正門から入っていましたが、今回は裏門から。急な階段を登ります。

 真如堂をゆっくり拝観して、人けのない墓地をのーんびり。もう、足がダメで、急ぐこともできませんから、お墓の方が近道。おや??おンや???

 「おンや????」草仮名で「池玉蘭の者可」とあるような???「へ???あの玉蘭のお墓???」
 玉蘭はたしか・・・池大雅と共に住んで、祇園石段下で絵を売ってたという奔放な女流の文人画家のはず。でも・・・江戸時代でも亭主の姓を上につけるのかしら???それにぃ・・・ひとりぼっちで、道端に石碑が傾いてあるのはやっぱりお墓???ちょっと疑問に思って、スケッチもせず、帰宅してパソコンに聞きますと、やっぱり「池玉蘭」でバッチリ出てきました。

 玉蘭、池玉蘭(1727~1784)祖母、母ともに、歌人。池大雅29才、玉蘭25才で結婚。祇園石段下に扇子屋をひらき、絵を売った・・・とあります。「亭主の墓になんか入るもんか」と言ってたとか・・・いつか何かで読んだ覚えがあります。亭主の池大雅も旅が大好き。家はほったらかして遊んでた・・・というか・・・当時って、行く先々で豪農とか、商人の家とかお寺とかに泊まって一宿一飯のお礼は絵で残した・・と言う時代だったようで、旅先の各地で絵を残しています。ある意味、庶民にも豊かな文化に手が届く時代やったんやねえ。真如堂の墓地に、亭主と離れてほおむられてる。噂にたがわぬ、しっかり独立した女性やったんやなあ!!!、

 

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 ひっそりした境内は、紅葉は少しさかりをすぎて、でも、まだ十分に美しいです。
もう一つ。面白い石碑をみつけました
 

 
 「多天可波さ九朗」・・・草かなで、「たてかわさくら」です。

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 横の解説板によりますと、春日局が、父、斎藤利三の供養のために植えた桜で、幹は1メートルほどもあったが枯れて、今のは新しく植えられた木だとあります。春日局はおなじみ、徳川3代家光の乳母。父、斎藤利三は明智光秀の重臣。山崎の合戦で秀吉に敗れ、近江堅田で斬首。母親は稲葉一鉄。
 楷書や篆書で書かれた墓碑は、見過ごしてしまいますが、かな文字のお墓となると、ついつい読もうとおもいます。ええもんやなあ。

 

  これはこれは・・・・楽しいなあ!!!もう海外も、国内旅行すらできなくなったももりですが、京都中京に住まう限り、ほとんどお金も使わずに、楽しみは無限にありそうです<

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2016年9月23日 (金)

種が島と鉄砲伝来

 今、山本兼一・・・・・面白い!!!


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 種が島に鉄砲がもたらされて2年。イエズス会宣教師ザビエルは日本にやってきた。しかし、やってきたのはザビエルだけではない。日本の銀山をのっとろうと虎視眈眈の策士もいた。
 薩摩藩藩士、アンジロウ・・・・性格破綻者である父を殺し、ポルトガル船で日本を脱出。ゴア、インド、中国・・・・流浪の末、クリスチャンになった。ザビエルにつかえ、彼の命ずるままに、日本へ帰ってきた彼の目に映った、日本の為政者達???大内、陶、尼子、大友・・・それぞれの領土への私欲の間にひそむ列島の亀裂。ここにくさびを打ち込み、銀山のポルトガル領有をたくらむ悪党・・・・・虚々実々・・・・おもしろい!!!


 銀の島・・・日本はかって豊富な金や銀を産出したんですから。


  ・・・・シャビエル神父ハ ウソツキナレバ 夫ノコトバヲ 信ズルベカラズ・・・略・・・サビエルガ 日本ニモタラシタモノハ 厄災デアッタ・・・


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 下、3冊は原田マハさん。「狼藉のゲルニカ」最初、図書館で借りようとしたら、待っている人が224人。「一冊の本をみんなで待ってるの??」「いいえ、8冊あります。まだ購入する予定もあります」ということでしたが、先日図書館で聞きましたら、「まだまだ・・・やっと164人待っています」ですってさ。さっさと読んでよ!!!

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2016年5月 4日 (水)

スサノオノミコトに会いに

素晴らしい旅をしてきました。思えばフルーイお付き合いの友人の生家へ連れてもらったのです。ももりは彼女が、実は和歌山の古いもっとも格式の高い神社の娘さんだということを、つい最近まで知りませんでした。ことのはじまりは、古事記に興味を持ってのおしゃべりから・・・・
 「私の生家は、和歌山の神社え」
 「へえ・・・なんていう神社???ご神体は????」
 「須佐神社、ご神体はスサノオノミコトやで」
え・え・え・・・・・スサノオノミコトですって!!!彼こそは古事記の主人公!!!
どこかおかしく、聞き分けもなく、でも、めっぽう強い!!!



 和歌山といえば・・・京都よりはるかに古い。京都がまだやましろ(山背・・・山のうしろ)と呼ばれていたころのおはなし。ヤマトタケルは瀬戸内海を東へ東へとせめのぼり、難波へやってきます。更に攻め上ろうとしますがどうしてもうまくいきません。ナガスネヒコがたけだけしくて苦戦続きです。そもそも、太陽神をまつるタケルが太陽の方向、東へ攻めるのはムリというものがあって、南に方向を変え、海路、和歌山へやってきます。そこから北へ攻め上り、大和橿原に行きついた・・と、ももりの幼い知識は解釈しています。


 

 「スサノオノミコト・・・須佐乃男命・・・和歌山!!!」一瞬でのめりこみました。しかも、兄君であるご当主は考古学者だというじゃありませんか!!!
 「行きたあーい」というわけで・・・あつかましくも・・・実現・・・・も・お・お・・・感動でした。お天気もサイッコー!!!

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 スサノオノミコトは、今更ももりが説明するまでもないでしょうけど・・・腕白悪ガキみたいな神です。日本神話ならではのキャラクターでしょうか。


 親神様から、「アマテラスオオミカミ(天照大神)」は地上を治め、ツクヨミ(月読)は冥界を、スサノオは海をつかさどれ」と命じられますが、死んだ母親の棲む根の国に行きたいとゴーゴーと大声で無くわめくばかり。その声に応じて悪い神々も、怪しくうごめき始めます。それではならじと、アマテラスは、弟に天に上ってくることを許します。すざまじい馬力で登ってくる弟、スサノオを見て、自分の国を乗っとろうとやってきたのではないかと恐れたアマテラス。
 なんとか、害心はないと認められて天の国にいついたスサノオ、田んぼの溝はこわすわ、ウンチはするわ、神聖な織姫の仕事場の天井から皮をむいた馬を天井から放りこむわ・・・織女がひとり犠牲に・・とうとう困りはてたアマテラスは天の岩屋にかくれ、世の中は真っ暗に・・・・

 それに、当主の考古学者の先生にも直にお話しがきけて、こんなに楽しいことはありません。何しろ、ももりの古代史は小説仕込み。あることないことごっちゃまぜで、品のないことおびただしい。
あ・あ・あ・・・・こんな歴史講座が近くにあったらなあ・・・でも・・・妙な質問を遠慮せずにはさむなんてことはできないし・・・

 それに・・・その神社は先の朝ドラ「朝が来た」のロケ地になったみかん畑の持主のご親戚でもあります。そこへも連れていってもらいました。右の方へ歩いていくのは???宮崎葵さん???みかんの花の香りにつつまれて・・・海も美しく・・・感動でした。


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2016年4月18日 (月)

西域物語   遠い思いでの日

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 井上靖をして、「私の生涯の一書はこれだ」と言わしめた西域の旅の克明な記録です。かつて旅したももりの旅とはスケールの違いでは、月とすっぽん・・・NHKのTV班とか、中国政府要人とかはでてこないし、過酷な砂漠の中に、車は立ち往生、まだ調査のされていない古都を訪れたり・・・でも・・・・少しは共感することを許してほしい。



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 下は、ベゼクリク千仏洞。その下は、トルファンにて葡萄棚の下で羊の皮をはぐ家族。今晩のごちそうか???一番下は、干しブドウをつくる乾燥小屋


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 相棒病み、自分の膝ももうすり切れて・・・でも・・・旅っていいなあ!!!
井上靖の、日本人遣唐使をテーマにした小説には、主人公のそばに必ず、やたら旅する・・未知の地を歩くことそのものが人生最大の目的、使命、生きがい・・のような人間が必ず登場します。


 ももりも旅はした方でしょう。何にも実を結ぶことはなかったけれど・・・やたら、旅をしたがった。もっとも旅って本来、旅そのものが目的であって実を結ばないのは当たり前です。

 このももりの西域旅行の時に作った短歌が下です。

 
 荒涼の  ゴビの砂漠のはたてには 碧空えぐる  天山のあり

 はじくごと  銀バエ散りて  ロバ駆けぬ  ウイグル乙女の  さざめきのせて

 水のおもに  のぼりゆくがに  日輪の  すべてを焼きて   いまし沈みゆく

 
  歩むごと  わがくるぶしを埋めしは  ゴビより降れる   太鼓の砂か


突然の砂嵐。あわてて必死でバスに逃げ込む

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 太古も今も、そう変わらないと思われる人々の営み


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2015年11月27日 (金)

古代の系図、その行間からたちのぼる妖気???

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 作家って凄い!!!あらたに出会ったのが、小石房子氏


 「巫女王斉明」「天照らす持統」読了。面白い!!!


 天智、天武は舒明天皇と皇極の子供・・・というのは皆みなが信じています・・・ところが、ところがぁ・・・事実ではない・・・といいます。皇極は実は百済の王、武の娘・・・・皇極は重祚して斉明女帝になりますが、実は・・・・そして、天武は高向玄理・・・高向王の子で二人は百済や長安で暮らしたこともある・・・と飛躍します。だぁかぁらぁ・・・斉明女帝は亡びゆく百済に執着し、百済救済に乗り出す・・・という筋書きです。


 そもそも・・・「日本書記」は天武の命により編纂が始まり、天武死後、遅々として進まなかった。自分が今、天皇家の王で、この国は、天より天下った王家が営々と受け継いできた・・・由緒正しい家系であるということを宣言するための書物である・・・・当時の、国際社会、唐、韓や他の国々に主張できる根拠にするための本という気宇壮大なもの・・・・でも・・・だぁかぁらぁ・・・当然、誇張やウソもあるよねえ。


 そもそも系図ってヤツ、単純に信ずるのはバカなことです。ももりも、本家に系図があると聞いて、一度見てみたいとは思ったのですが、その系図が藤原鎌足から始まっていると聞いて、途端に興味はうせました。「いいかげんせえよ」って感じです。


 日本書記、古事記の行間によみとれる不審な空気・・・そこを小説にして空想をふくらませるなんて、楽しいにちがいないなあ!!!ももりもいっちょ!!!

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2015年11月18日 (水)

古代への旅

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 「日御子 ひみこ」帚木蓬生  読み終えました。
変わった小説です。文学以外では表現できない世界です。やさしい語り口で、歴史以前の九州と漢、韓との交流を描いていきます。語り部は・・・まあ・・・通訳とでもいいましょうか、あずみの一族。はるかむかしに北からやってきた一族。まだ日本に独自の文字のない時代の語り部が、一族で語り継いできた倭国の歴史です。

 下は「韓委奴国王」(かんのわのなの国王)・・・ご存じ、志賀島から発見された金印です。その中の「奴」の文字は実は「那」(九州にあったな国)であったのを、奴隷の意味を持つ「奴」に代えられてしまった・・・・あずみ一族の無念の思いを代々つたえていきます。1784年(天明4年)博多湾口の志賀島から発見された実在の「韓委奴国王」金印。中国側の記録では、後漢の中元2年、57年にあたるそうです。

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 戦乱の世が続き、やまたい国に卑弥呼があらわれて、平和がきます。「親魏倭王」の肩書を魏の国王からもらった邪馬台国は、しかし、卑弥呼の死と共に、たちまち、又乱れ、「登与」が女王位についてやっとおちつきます。そのあたりは魏志倭人伝に書かれて、史実かどうかにぎやかなところです。

 下、写真は何度目かのおつとめですが、吉野ヶ里遺跡で卑弥呼時代の人達とももり。


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 相棒病んで、もう遠い国への旅は望めません。でも、久しぶりに、旅!!!遠い古代への旅を楽しみました。作家の、深い知識と空想力に脱帽・・・文学って、やっぱりすごい!!!

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2015年10月18日 (日)

どうぞ、お気楽に・・・・スルー・・・スルー

 平安京・・・794年・・・(なくよ うぐいす 平安京)

 平安京に至るまでの王家の歴史・・・・くうーーー
自分の復習と思ってアップしますが、どうぞ、お気楽に・・・スルー、スルー

 飛鳥に都をおいた天皇たち。舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武、持統、文武、元明、元正,聖武・・・・濃厚な血脈です。
 現代の目からみれば、なんとも、異様な濃すぎる血脈です。天智の娘たち2人は弟(5才年下)天武の嫁になりました。持統と姉です。持統と結婚した天武・・・・二人の間の息子、草壁皇子の嫁は、なんとなんと、又、天智の娘(のちの元明女帝)。つまり孫、の嫁も又、天智の娘です。わかりますか?????何しろザーッとみて8人のお后から生んだ子供が12人。嫁が若かったら、孫の嫁にも自分の娘をくみあわせられるるわけで・・・・
 何としても、自分の血統を守り抜く強固な意志・・・当時、母親の出自こそが天皇になる資格の最たるものだったようです。


 難波に都をおいた孝徳帝、白村江の戦いの徹底的な敗北の経験から朝鮮半島から新羅と唐の連合軍がせめてくるとおそれたからといいます。そのあと天智は大津に都を遷しました。大津京です。下は京都市山科にある天智天皇陵。天智の死後、天武は元の飛鳥に都をもどしました。さらに都は藤原京へと遷ります。

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 しかし・・・濃すぎる血は、やはり問題があったようで、草壁は28歳で死にます。後には7才の息子(持統から見たら孫)を残して死にました。せっかく、ライバルの大津の皇子を殺したのにね。大津の皇子は持統の姉と天武の間の子です。つぅ・まぁ・りぃ・・・・天武は姉妹を嫁にして、草壁と大津という息子・・・宿命のライバルを生んでしまった・・というわけです。

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 天武の嫁、持統。せっかく、ライバルの大津(姉の子)を殺して、さ・あ・あ・・・天皇にしようと思ってた凡庸な息子、草壁が28才で死んだから、幼い7才の孫の成長を待って天皇にしようと持統は覚悟をきめました。天の孫・・・ここが大切!!!天孫がこの豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国へ天下った・・・天皇は神々の孫・・・孫・・・ここが大切!!!日本書記や古事記が主張する天孫降臨の説話が作られたらしい・・・・孫は成長して文武天皇になりました。


 しかし・・・・孫、文武も25才で死ぬのよねえ。持統から言えばひ孫、7才がのこりました。
仕方なく、文武の母、天智の娘をつなぎに女帝にしたてました。元明女帝です。元明の死で、位は草壁の子、文武の姉が即位しました。元正女帝です。やっと成長した孫は聖武天皇として即位しました。ここからは・・・まあまあ、ももりが言うほどのこともありますまい。


 全く・・・敬称略で・・世が世ならももりの首はすっとんだやろねえ。

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2014年12月15日 (月)

栂尾の高台寺と「新平家物語」吉川栄治

 フルーイお話になりますが、吉川英治「新平家物語」に登場する、栂尾の高山寺。下スケッチは先日、高尾の神護寺のついでに寄った高山寺


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 その昔の平安朝、鳥羽天皇の頃・・・宮廷は、和歌を競い、香を嗅き、蹴鞠、散楽、すごろく、貝合わせ、投扇興、四季の物見遊山、闘鶏、賭け弓   何もかも遊びにしてしまった御代があった・・・しかし、地下には武士の台頭、強大な寺院勢力の横暴、西国や東国から聞こえてくる海賊や土豪の叛乱・・・近くには朝廷と院・・・の対立も。


 当時、勧学院の仲間であった、平清盛、源の渡(わたる)、佐藤義清(のちの西行)、遠藤盛遠ら若者は、加茂の競馬のうわさで持ち切りでした。「四つ白」の馬・・・足元が四本とも白い。青毛の四つ白・・・白河天皇(今は上皇)が、是非にと望んだが、凶相ゆえにあきらめたという駿馬・・・を手に入れた源の渡・・・先だっては絶世の美女、袈裟御前をめとったという源の渡・・・「四つ白」は凶馬だといます。

 若い仲間たちは、袈裟と四つ白を見せろと、渡にせがみます。競馬の日までは見せないという渡ですが仲間の要求に屈し、夜に住まいにくるように言います。漆黒の闇に月がのぼり、四つ白のくつわをとった袈裟御前が門前に立ちます。袈裟の美しさは・・・・この世のものとは思えない。


 「新平家物語」から
・・・・あわれ年ごろ、恋い痩せ男の、狂い死にをも見すごし給うか。この苦患(くげん)を救いたもうもの、君をおいてあらじを、あなつれなき君かな。なんとて、渡が妻にはなりたまえる。かりのおん情けたりとも一世、まくらをかわしたまえや。夫ある人の垣の、あだし妻花を寝盗むの科、その罪業十悪を越え、無限地獄の火坑に落ちんもよし。何かは、この苦しみにまさるべきかは・・・・


 どうですか…この名調子・・・・!!! 

袈裟御前に懸想した遠藤盛藤・・・しつこく言いよって、袈裟御前のしとねに忍び込みます。
「眠っているのは、夫、源の渡」そう思った盛藤は、毛にした刃で、グサリ・・・・しとねに横たわっていたのは変わり果てた袈裟御前・・・・「あ・ああ・あ・・・」盛藤は人里離れた鳴滝、栂尾に小さな庵を結び、滝に打たれて修行・・・とか・・・

 こんな話を思いながら。うろうろ・・・目的もなくウロウロ・・・ボーッ・・・これが、またぁああ、幸せなんです。

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2014年11月13日 (木)

エヴェレストに登った男

 今、魔頂「チョモランマ」今井通子・・・に、もお・お・お・・・ぞっこん


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エヴェレスト  世界一高い山  8847メートル
ヒマラヤ山脈、東西2500キロメートルの世界の屋根の東の方。北はチベット中国自治区、南はネパール。エヴェレストは、この山を発見したイギリス人、サー・ジョ―ジ・エヴェレストの名前を取ってつけられたといいます。この人はインド測量局の局長で、1849年、初めてこの山の高さを測量しました。ネパールでの呼び名は「チョモランマ」世界の母なる女神という意味ですって。

 私の書道教室にしばらく見えた男性がいました。ある日、粗末な紙のカレンダ-をくれました。
「あれれ???これは???どこの国のもの???」とききますと
「ネパールです。エヴェレストに登ってきました。お土産です」ってというじゃありませんか。
背の高い、細身の男前でした。日に焼けて、そういえば、まさに山男!!!「山岳会に報告書を書くのが大仕事です」って言ってましたが、間もなく教室へは見えなくなりました。寡黙な方でしたが・・・その時いただいたカレンダーをさがしましたら・・・ちゃあんと本棚にありました。うれしい!!!写真は下


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 下は、アンナプルナ峰・・聞いたことがあります。

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 下は、エヴェレスト。こんなすごい山に冬季の登攀しようと、わが敬愛する今井通子氏は隊長として、若い隊員を引き連れて日本を発ちます。

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 荷運びをするヤクがいます。その下はカンチエンジュンガ・・・この峰も名前を聞いたことがあります。


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 エヴェレストに本格的に登ろうとしたのは、まずは、イギリス。1921年。ダライ・ラマがイギリス登山隊に登頂を許可したことに始まります。一回目…2回目・・・8回目の遠征隊がイギリス地理院によって試みられますがすべて、撤退。吹きすさぶ風、雪、霰・氷壁、雪崩・・・スイス隊が2回・・・撤退・・・1953年、ヒラリーとシエルパのテムチンが頂上に立ちます。ももりの本棚に、下の本がありました。


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 インドからはるばるチベット高原を踏破して北側から、ヒマラヤを仰ぎ見た人々、そして頂上に登ろうとして何人もの命が失われました。そして、わが尊崇の今井通子氏は1958年~59年、1960年とエヴェレスト(チョモイランマ)に挑みます。続きは明日。

 

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2014年11月 5日 (水)

新田次郎の女たち

 最近、はマリまくっています。新田次郎氏と今井通子氏


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 新田次郎の作品を読み進めていますが、今一つふに落ちない点があります。それは・・・彼の作品に登場する女性たちがえらく冷たく扱われていることが多い、ということです。
 上の「小説に書けなかった自伝」には、彼の奥さん、藤原ていが登場します。終戦時、満州にとりのこされて・・・夫、新田次郎は軍人ではなく気象観測の公務員でしたが、ロシアの捕虜として拘束されました・・・母一人、幼子を3人連れて、歩いて38度線を通過、一年かけて帰国したという猛女です。彼女の体験は、「流れる星は生きている」という小説となり、ベストセラーになり、当時困窮していた家計をうるおします。しかし・・・行間にちらりと見える奥さんは、容赦ない彼の小説の評論家です。やわらかい女性という感じがゼロ・・・だぁかぁらぁ???新田次郎は女のやさしさを知らない???のでは・・・なあんて・・・ね。


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 ももりの経験では・・・大学3回生くらいになったら、一回生くらいの男の子なんてチャライ!!!荷物だってももりの方がはるかに重いのに、キャンプサイトについたらドッテーンとひっくり返って動きもしない。しかたがないから黙々とテントを設営し、炊事をし、後片づけもする・・・マ・ア・ア・・・ガマン、カンニン!!!この根性が結婚生活を耐えさせたか???男ばっかりが強いのでは決してないよっーーー!!!

 でも・・・「流れる星は生きている」・・・また図書館でさがしましょう


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