2009年12月10日 (木)

雲仙普賢岳の平成新山

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 雲仙に行って来ました。今年の春、吉野ヶ里から長崎へ、そして島原へと回った旅では、霧の中にボンヤリ、山の形だけがオボロゲに浮かび上がっていた普賢岳・・・今回、空もくっきり晴れ上がり、その激しい山容を見せてくれました。朝イチにリフトで妙見岳に上りますと、霧も晴れて、普賢岳と平成新山が目の前です。
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特に大規模な人的被害をもたらしたのは・・・ウィキペェディアより・・・

1991年(平成3年)6月3日、午後4時8分に発生した火砕流であり、取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者(クラフト夫妻と案内役)3名、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名と9名の負傷者を出す大惨事となった。

スケッチ、手前が普賢岳、後が噴火でできた溶岩ドーム。時速120キロで流れ下ったという火砕流は、上の方は、まだむき出しの赤茶色、下の方は、金茶色に輝いていました。崩落を食い止めるための植林作業として植物の種をヘリコプターで吹き付けているそうで、それが、もう、今の季節、枯れているのです。平成新山は標高1483m、この溶岩ドームがあっという間に出来たというんですから、自然は怖ろしい。普賢岳は1359mで、今、島原半島で一番高い山が、この新山です。ここから海まで一気に火砕流が流れ下るさまは、想像するだに怖ろしい!!!雲海の彼方に、阿蘇、天草が見えています。

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 泊まったお宿の後ろの地獄・・・白い温泉は、なんだかお肌に良かったみたい。お料理も美味しくいただきました。

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2009年11月16日 (月)

ブルガリアはタイムトンネルのすぐ向こう

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 写真はルーマニア、ブカレスト。チャウシェスクが建てた途方もなく巨大な石の塊り。大統領府。彼はこの完成を見ること無く銃殺されました。1989年12月22日、演説の途中に激しいブーイングで立ち往生。その困ったようなおびえたような表情は、繰り返しTVで放映されて、ももりも覚えています。一介の農民だった彼が大統領の座に上り詰めた経過はドラマ以上でしょう。今は「国民の館」として、貸し会議場や見学者を受け入れています。写真はガイドブックから。もう暗くなってスケッチもままならず。
 ベルリンの壁崩壊が1989年11月9日。今から20年前。TVでもその映像をよく映しています。当時ハンガリーとの国境が先ず形骸化し、東独市民が大量に脱出。「ハンガリーへピクニックに出かけよう」と云う合言葉があったとか、どこかで読んだ記憶があります。
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 ここ、ブルガリアでも、同じ1989年12月16日、ティミショアラで抗議運動があり治安部隊が民衆に発砲。多数の犠牲者が出たそうです。しかし、国軍は民衆の側に立った。そして、チャウシェスクの治安部隊と市街戦をくり広げ、国営TV局、共産党本部を民衆が占拠。チャウシェスクは追われて屋上からヘリコプターで脱出。2日後に見つかって夫婦とも銃殺された。スケッチはももり、ベルリンの壁、1005年に訪れました

 

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2009年11月14日 (土)

トラキア人の墓・・・ブルガリア

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 文字を持たない文明とは、口のきけない人のようです。もどかしげに語りかけてくる内容の密度の濃さに圧倒されます。下はブルガリア、カザンラクのトラキア人の墓を見学した時のメモ。左の小さな建物の下にホンモノが埋まり、右の小さな建物に精巧なレプリカが作られています。その彩色の見事さ・・・紀元前4世紀と云うから驚きます。上は絵葉書。日本でも明日香村なんか、こんなにしてほしいなあ。
 
 日本でも、先日来「よみがえる黄金文明 古代トラキアの秘宝」と云う展覧会が全国6ヶ所だったかで行なわれて、その記事をアップなさったブログも拝見しました。下のスケッチはバルカン山脈。霧の中のシプカ峠を越えました。この地、ブルガリア、ルーマニア・・・旧ユーゴ、トルコ、果てはロシア、アジアから・・本当に様々に民族が行き交った、戦い、破壊し、創造し、商い、結婚したのです。
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2009年11月13日 (金)

医者になれなかった・・・・

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 医者になれなかった・・・と、言ったという市橋容疑者・・・医者がどうしてそんなに良い????
私の父は小学校の校長でした。ある日、ももりが「頭の悪い子生んだらどうしょう???」って聞いたら、
「何にも心配することはない。知能指数の高い子にはでけへんことも、低い子ならできるという分野が必ずある。たとえば、一日中、校庭の草むしりをやらせたら知能の高い子は1週間もつづかへん」って言ったことを思い出します。
 解体工事現場では黙々と働いた、日曜日まで働きたいといった、と、いうこの青年。医者なんかをめざさないで、初めから解体の仕事を選んでいたら、今に、人も使って立派にやっていったでしょう。解体でなくても、得意な外国語を生かして、外国で働けたかもしれません。

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 「職業に貴賎なし」この言葉はもう、死語なんでしょうか・・・・
彼は、絶食して死のうとしているのではないかしら???周囲の過剰な期待に押しつぶされた青年。ありのままを受け入れてあげて欲しかったと思うのはももりだけでしょうか。
 ももりの父は、ももりが、小姑2人、姑のいる家に、押しかけ女房の如き結婚をすると言いきったとき、「人生は何度でもやり直しがきく」とも言いました。スケッチは、先日行ってきたルーマニア、ヴェリコ・タルノボの旧市街。どうですか、この自由な家々の壁の色

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2009年11月11日 (水)

ドラキュラの血

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 右は吸血鬼ドラキュラのお城、ブラン城で買い求めたワイン「DRACULA BLOOD」。まだ試していませんが。
 今、日本では、英国人女性を殺したと思われる若者が逮捕されて、TVもそのニュースばかりです。どう間違えて吸血鬼が日本に生まれたのか???イエイエ、最近、女の吸血鬼もアチコチにうごめいていたようです。

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 カフカの「変身」、あまりにも有名な小説です。主人公はある日、虫に変わっていました。この虫はだんだん成長していく怪異な虫。一生懸命愛情を注いで育てていた子供がある日、怪異な虫、いや、吸血鬼であった、と、わかった時の両親の驚きと苦しみ。小説の中味ではありません。どうして、あの両親に、あんな吸血鬼が生まれてしまったんでしょう。これは、きっとドラキュラに噛まれた???ももり自身は、親の責任とは思いたくありません。一生懸命勉強させすぎた????それって誰でもやってしまうことでしょう???親は必死なんですから。
 ももりにも、子供を育てていく過程、そんな悪夢が心を掠めることがありました。勿論、息子達の名誉の為に断っておきますが、息子達の素行が悪かったなんて事は何もありませんでした。でも、心配性なももりの空想癖から、妄想が頭一杯に広がるなんてことはありました。もう、息子達はアラフォー。「やれやれ・・・何とか無事やったかいなあ」って思うこの頃ですが、まだまだ人生、先に何があるかは誰にもわかりません。
「ドラキュラの血」のワインの左はバラの花のジャム、これらはルーマシアで買い求めました。右は42度の果実酒です。水割りにしたらおいいしいです。此方はブルガリア

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2009年10月 8日 (木)

ジャンヌ・ダルク  その3

皆様・・・台風は???お見舞いもうしあげます。我が家は無事、見過ごして去ってくれました。さて、昨日のつづき・・・ジャンヌ・ダルクを・・・

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 ジャンヌ・ダルクはランスで、国王を戴冠させて、そのまま、ドンレミイの村に帰った方がよかった・・・でも・・・ジャンヌは貴族に列せられました。ジャンヌの兄達も貴族になり、王家のユリの紋を使うことを許されました。
 一方、シャルル7世は王位についたものの、国内にはイギリス側につくブルゴーニュ公爵もおり、イギリス軍も新たに軍隊を送り込んで、シャルルがパリへ入ることはできません。ジャンヌは、9月、パリを攻撃、11月ロワール河畔の町を攻撃。しかし、もう、神はジャンヌを見放していました。
 

 1430年、5月23日、コンピエーヌにて、ジャンヌは敵の捕虜になります。「魔女だ!!!オルレアンの魔女を捕まえたぞ!!!」
ジャンヌのために散々苦しめられた敵方の憎しみはいかほどのものであったか???
牢獄に入れられたジャンヌは、一万リーブルでイギリスに売られてしまいました。イギリス領になっていたルーアンへ送られたジャンヌは、異端審問の宗教裁判を受け、先日、アップしたルーアンの市場の広場で磔刑、火あぶりになりました。19才。
 シャルル7世がパリを奪い返したのは4年後。ブルゴーニュ公爵と手を握り「フランスはフランス人の手に!!!」ジャンヌが叫んでいたとおりになりました。彼女は、いま、聖人に列せられています。スケッチ、下はルーアンからパリへの道。上はパリの西北、パンティン港

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2009年10月 7日 (水)

ジャンヌ・ダルク  その2

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  ジャンヌは6人の男に守られて、ロワール河沿いにシノンに向かって進みました。シノンに王太子シャルルがいるのです。グズグズと優柔不断のシャルルもジャンヌに会い、いくつかの奇蹟を見て、ジャンヌを信じます。審問会議も通過しました。ジャンヌは王太子にランスへ進軍し、戴冠式をするようにすすめます。王太子は、ブロアで軍を集めました。「神のお使い」ジャンヌのうわさを聞いて、1万人近い兵隊や人夫が集まり、武器や食料も届きました。いよいよ、オルレアン救援に向かうのです。道中は、イギリス軍にくみするブルゴーニュ公爵の領地です。

 オルレアンがイギリス軍の手に墜ちれば、もうブールジュのイギリス軍まで、遮るものはないのですから、王太子の本拠は絶望です。(ブロアの事は、8月23日、25日、26日、28日にアップしていますので、お時間あれば・・・・どうぞ。ほら、例の天才女詐欺師、ヴァロア・ド・ラモットの記事です)

 オルレアンを囲むイギリス軍との激突はくりかえされ、その都度怯みがちなフランス軍は、ジャンヌの叱咤激励のおかげでイギリス軍を破ります。どちらの兵士も長い戦いに倦み、食料不足に苦しんでいます。「魔女が来た!!!」おびえるイギリス兵。「進め、進め、神はフランス味方です!!!」一度も勝てたことの無かったフランス軍は勝利しました。1429年5月8日、イギリス軍はオルレアン包囲の全てを棄てて退却、ジャンヌはオルレアンに入り、神のお告げは成ったのです。

 オルレアンが墜ちて、ランスへの道は400キロ。しかも、周囲は敵ばかり。おびえるシャルルや貴族を説き伏せ1429年7月17日、ランス入城。翌日、シャルルは戴冠式を経て国王となりました。
「あなたさまこそ、フランス王、神の望まれた王!!!フランスはあなたさまのものでございます」  つづく スケッチはブロア城


 

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2009年8月26日 (水)

マリー・アントワネットより、よっぽど面白いヴァロア・ド・ラモット

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女の子が一番最初に興味を持つ対象って、そりゃあ、フランス革命でしょう。・・・いえいえ・・・ももりはそうでした。そこで出てくる、ヴァロア・ド・ラモット。彼女はマリー・アントワネットなんかよりはるかに面白いのです。
 シュテファン・ツワイク「マリー・アントワネット」によれば・・・以下、要点のみ
 

 ジャック・ド・サン・レミーは密漁、大酒飲み、百姓をゆするといった札付き者ではあるが、ブルボン家においては由緒あるヴァロア家の直径の子孫である。その、破産した貴族と、たぶらかされた女中の間に生まれた娘、ジャンヌ、いつも裸足で畑から馬鈴薯を盗み、一片のパンの代わりに牛の番をしていた。

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 汚い見捨てられた浮浪児は、7才のとき路上で叫んでいた「ヴァロア家の血を受けましたこの孤児にお恵みを・・・」
たまたまプランブリエ公爵夫人が「敬虔なルイの血を???虱だらけの腹ペコの乞食娘が」と、とも角馬車を止めさせ、妹とともに拾い上げた。女子修道院に入れ、14才から働くが、22才で出奔。パリは、ふところは寂しく、しかし、頭は野心まんまんの若い娘にとって、これほど面白い所はなかった。美しい小娘、ジャンヌは、貴族の片割れ、ニコラス・ド・ラ・モットと云う憲兵士官をキャッチ。結婚1ヵ月後には、早くも双子をもうけるが、勿論、それで収まるような玉ではなかった。スケッチは冬のパリ  つづく

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2009年8月25日 (火)

ヴァロワ・ド・ラ・モット・・・と言えば

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 自分でも多少うっとりとしてこの話を書いていますから、お付き合いくださる方は、さぞ、ウンザリでしょうね。こんな意気揚々とした日もあったももりですが、今は、好々??婆です。

 当時のももり、 「ラ・モット」さんと云う名前を聞いた途端、ひらめくものがありました。ヴァロア・ド・ラモット・・・お聞き覚えがありませんか????
 フランス革命の引き金になったマリー・アントワネットの首飾り事件。とても面白い、小説以上の史実ですので、書いてみましょう。

 ローアン大司教はマリー・アントワネットがまだウイーンのお城にいたころ、ウイーンにおり、母の女帝マリア・テレジアは酷く彼を嫌っていました。女性にだらしなかったのです。謹厳なクリスチャンの母帝には、許しがたい人間性でした。アントワネットが、14才でフランスへお嫁入りし、先帝が死にます。いよいよ、ルイ16世がフランス王に、アントワネットは王妃になりました。アントワネットの絶頂期です。
 ひきもきらぬ取巻きのご追従。しかし、アントワネットはローアン大司教を無視、シカトし続けます。「なんで???」何とか取り入りたい!!鬱屈したローアン大司教の耳元に、ひっそりとささやいた者がありました。

「ルイ15世様が、愛人のために作らせた、とても高価な首飾りが、今、買い手を失っていますのよ。アントワネット様は、本当は買いたいのですが、最近、民衆が、もう、うるさくて・・・」王妃の浪費が国家予算を危機に陥れていると、当時盛んになっていた、パリの新聞は書き立てていました。

「ですから・・・ローアン様が、お買いあそばして、それを、後からこっそり、4回に分けて、アントワネット様がお払いになるというのはいかがかしら???」
こう、ローアン大司教に耳打ちしたのが他ならぬ、バロア・ド・ラモット。
 鬱屈しているローアン大司教は、コロリと乗せられました。首飾りがローアン大司教の手に入り、それを、
「アントワネット様に、しかとお渡しいたしますわよ」と、持ち去って、そのまま、ヴァロワ・ド・ラモットはロンドンへ、王冠ごとドロン!!!何も知らぬアントワネットの元に、第一回目の請求書が届きました。さ・あ・あ・・・・騙された、と気が付いたのは気の毒なローアン大司教でしたが、世論は別の方向に動きました。
「アントワネットは、実は本当に首飾りを買うつもりだったんだ」と、世間は騒ぎたて、王妃への反感は高まり、革命への坂を転がり落ちていったのです。
ヴァロア・ド・ラモット・・・ラモットのヴァロア・・・ヴァロア王家は、もっと古い王朝です。さ・あ・あ・・・・
「あの、ラモット家???」ももりは、この瞬間、ブロアの展覧会に参加をきめたのでした。つづく
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2009年8月23日 (日)

1993年 フランスで生きているももりの絵

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 スケッチはラ・モット氏の館。前の続きです。


「ももりさあん」誰かが呼んでいる。
「早く、早く・・・一体、何してたのよ。お客様よ。あなたの絵を買いたいって言ってる」
お客はどこかジャン・マレーに似た男性と、端正な容貌の奥方が、ダリアや菊を盛り込んだ絵を指差している。
「あなたは、この絵を売るか???」
「ウイ ウイ・・・メルシ ボークー」通訳嬢より早く私は返事をした。
「いくらで売るか」
「あなたはいくら出せるか」
「1000フラン」約2万円。安い。日本なら15万くらいで売っている。ええい!!!ここは、フランス。大安売りだ。フランスで売るなんてカッコイイ!!!持ってきたものを全部持って帰るなんて屈辱だ!!フランスに住み、絵を生業にしている日本人絵描きたちだって、いつもこぼしてる。「フランス人は絵なんて買わない。彼らの家には昔からの絵がいっぱいあるんだ。それにヤツらはケチで・・・・」そのフランス人がももりの絵を買うんだぞ!!!
「ウイ ウイ  メルシー ボークー」商談成立。
「私はこれを買ってもらってとてもうれしい」
「どうして 売れてうれしいのか」
「絵は私にとって息子のようなものである。私には3人の息子がある。息子を育てるように、私は絵を育ててきた。今、息子がここ、ブロワの地で人に愛されて生きていくと思うととてもうれしい」
「とても 詩的な表現です」 横から奥方が言った。
「主人はこの絵が好き。でも私はこれが好き。これを私のために買いたい」荒いタッチのひまわりの絵である。
「2点で安くできるか」私は激しく首を振った。彼はやさしく肩を抱いて、気にするな、というジェスチャーをして、すぐ小切手を切ってくれた。ポーラリオン・ピエール氏と奥様のアンリエッタさんである。
 差し出されたポーラリオン氏の腕に自分の腕をからませて、私は意気揚々とディナーのホールへ入っていった。 つづく

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