久しぶり ゾッコンな本「正倉院の謎」
ご存じ、奈良の正倉院。世界遺産。奈良の都に唐王朝の文化をもたらした、聖武天皇と光明皇后の天平時代。聖武天皇の死後77日に、なき天皇の遺愛の品を光明皇后が、追善供養とて、東大寺に寄進したお宝、絶品の数々を収めたお倉です。
ちょっとオカターイ本ですが、そっりゃあ!!!お・も・し・ろ・い!!!
以前アップした「書と漢字」魚住和晃をよんでいまして、「あれれ???」と思ったこと。それは正倉院の宝物、元は700点以上あったのが、現在は百数十点に減っているというのです。天皇の勅許が無ければ持ちだせないおタカラを持ちだして、返さなかったヤツがいっぱいいる。一体!!!???どこのドイツが???
正倉院・・そもそも、正倉院というのは、一つの建物ではなく、正倉、薬倉、油倉、経蔵とか、いくつかあって「院」とは、境内のことといいます。
正倉院の宝物は、聖武天皇が死に(756年5月)、悲しみの光明皇后が、生前の天皇が身近において愛した品々を77忌に東大寺に奉納したおたからから始まります。同年、6月21日に一回目、2年後の7月、6月、10月と続いて、その数、700点以上あった、というのです。奉られた品々にはキチンと目録があり、「東大寺献物帳」(国歌珍宝帳)が、見事な筆跡で記録しています。その中には、もう、本家中国にはとっくになくなり、日本に何点も残った王羲之の書があった・・・といいます。
ももりは、これでも、20才代から書道を続けてきた人間です。改めて、聖武天皇や光明皇后のお書きになった遺品を見ますと、本当にその力に驚きます。しかも、30才代で書かれたものといいますから、書いた本人も凄いですが、指導した取り巻きのレベルが凄いにちがいない!!!
これらの書や遺品から、天平から平安への当時の精神風景が生き生きと伝わります。唐帝国がもっとも栄えた時代、日本と唐を行き来した知識人たちは、最高級の文化や学問、芸術を日本にもちこみ、日本人も必死に学んだという時代です。
それを・・・なんとも安易に持ち出して、ある時は安く売り払い、またはどうしたのか、ネコババして???返さなかった者が凄く多いというのです。中でも、書の絶品をなくしてしまった張本人は、嵯峨天皇!!!というじゃありませんか。・嵯峨天皇といえば京都の人間にはとてもしたしいお方です。奥嵯峨には御陵があり、ももりも何度もお会いに行った天皇様です
嵯峨天皇、平安の三筆、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とならぶ三筆の一人で、超一級の書の書き手として名を残した人ですが・・・このズボラさは、許せなぁーい!!!
夢中になる本が身のまわりにないときって・・・何ともうつろでさびしいです。多少依存症の傾向あり。この2~3日、寒さがこたえたのか久しぶりにダウン。3日程食べずに寝ていましたら、何とか、昨夜はビールをのみたくなり、ちょっと食べたくもなってきました。やっぱり、ももりはビールを飲んで、プールに行ってなくっちゃ・・・ね。
もうちょっと書きたいけど・・・書くのも読むのもむつかしい!!!一番右の大きな本は父が所蔵していた本。ほとんどかえりみることなく本棚に死蔵してたのをひっぱりだして観察。すごい!!!それにしても、56才でなくなった父のレベルには到底至らないわが身のフ・・ト・・ク・・・
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