2013年4月 2日 (火)

ヴォーリズの建築 駒井邸

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 午後から雨・・・と言いますから・・・近場でお花見をしましょう・・・と、いうことでママチャリで出かけました。お目当ては駒井邸・・・中京のももりの家からは相当遠い。でも、ウイリアム・ヴォーリズというんですから、これは見逃がせません。


 滋賀県近江八幡に住んだヴォーリズは多くの建築を滋賀県に残していますが、京都にも、こんなステキな邸宅があったのですねえ。


 駒井邸は、京都大学教授、駒井卓、静江夫人のお住まいでした。大きくはありませんが、とてもシックで上品な明るいお家です。お庭が大きくて、日当たりの良いサンルームにはロッキングチェアー。スパニッシュ・アメリカンのコロニアルスタイル・・・開拓者が好んだ手作りのアメリカンスタイル・・・というのでしょうか。バルコニーやお庭も、とても魅力的。とも角、周囲は疎水沿いの古い道。年を経た見事な桜が満開でした。ぜひぜひ・・・
 今、特別公開で4月9日まで。場所は白川疎水沿い。高野から東へ・・・さ・ア・ア・・・ママチャリで3分くらい???地理オンチで上手く説明できませんけど・・・。

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2013年2月28日 (木)

ピカソ 20才から24才  青の時代

 失意のピカソは、パリからバルセロナに帰ろうとしますが金がありません。父親の送金を待ちかねています。やっと金が届きました。バルセロナへ帰った彼は一層落ち込みます。みんなに嘱望されて出て行った彼、成功はおぼつかないとは・・・つらいよなあ!!売春宿かカフェか、友人のアトリエか???しかし、女達の絵が沢山残っています。
 1902年、再びパリヘ


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 パリの生活は相変わらず貧しく食べ物もない。友人の留守宅のパンを食べてしまったりもしました。どん底の暮らし、友人マックスが一緒の生活を誘ってくれ、マックスが昼間、働いている間には一つしかないベッドでピカソが眠り、夜はマックスが眠る間、ピカソは絵を描く。自殺も考えたといいます。結局4回、バルセロナとパリを往復。何処にも落ちつける処のない暗いピカソの青春です。又、バルセロナへ

 1904年。ピカソはパリヘ。そして、そして・・・・開けゆく「バラ色の時代」・・・

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2007年12月28日 (金)

やっぱり ピカソ

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 今年の手紙を整理していましたら楽しいピカソの絵葉書がありました。これは1961年と書き込んでいますからピカソ、80才。ピカソは1900年に19才ですので、年代の下2桁に19を足したら製作年代がすぐわかります。とても憶えやすいんです。どうですか、やっぱりピカソ・・・2人とも女性???ひょっとして、左はピカソ自身かもしれません。もう、すっかりお役に立たなくなった自身の分身を隠してショボンとしているのでは???右の女性はジャックリーヌ・ロック???いやいや、ジャックリーヌはこんなに伸びやかではなかった???フランソワーズ・ジロー???でも、その間にも、ジュヌビエーブ・なんとかとか、他にもいっぱいいたんやから・・・
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 一方、もう一枚のほうは、良く知られている絵で、マリー・テレーズです。ピカソ51才。マリーは、きっとお腹の赤ちゃんの胎動を感じて幸せにうっとりしています。どうやら、ピカソの絵を見るたびに、ピカソの生活そのものをのぞき見する楽しみを覚えてしまったようです。やっぱり・・・・ピカソ・・・魅力あるなあ(No634)

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2007年12月22日 (土)

ピカソの絵 盗難76億円 

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 毎日、ピカソばっかり書いている折も折、ピカソの絵がブラジル、サンパウロ美術館から盗まれました。以下は毎日新聞から・・・2007年12月20日早朝、ピカソが1904年に描いた「シュザンヌ・ブロックの肖像」と「コーヒー農園の作業者」2点が盗まれました。地元紙エスタド・デ・サンパウロによると、表玄関から3人の男が侵入し、3分もかけずに持ち去った。推定価格は5500万ドル(62億円)一説には約76億円、と、書いています。
 1904年といえば、ピカソがパリに出てきた2度目にあたります。19歳でやってきてパリに敗れ、失意の内にバルセロナに戻りましたが、再び、気力を回復してパリへ出てきました。「洗濯舟」と言われる有名な安宿に腰を下ろしたのが、1904年4月12日、23才。同じ年の8月4日、激しい雷雨の中、駆け込んできたフェルナンド・オリヴィエの前に猫を抱いたピカソが立ちはだかります。そして、その猫をフェルナンドに押し付けました。フェルナンドも、若すぎた結婚に傷心の時で洗濯船に住んでおり、2人はその日に結ばれました。その時の絵を残しています。それまで、売春宿に入り浸っていたピカソは美しいフェルナンドを得て、男として充実していきます。この時期、「青の時代」から」「バラ色の時代」へとめまぐるしく変わる時で、周囲が「描きすぎる」と助言するほど、旺盛に作品を残しました。1904年の秋にはフェルナンドの部屋で一緒に暮らしています。そして、ある日、今まで「狂ってる」とピカソの絵を批判していた画商アングロワーズ・ヴォラールが、突然、ピカソの作品30点を2000フランで買うと申し出ました。3年間の生活費をまかなって余裕がある金額でした。美しいフェルナンドを愛したピカソは「極端に嫉妬深く、買い物にすら独りで外出はさせませんでした」と、後日、フェルナンドは言っています。「世捨て人の生活」だったと・・・しかし、旺盛な性欲は満たされ、ピカソは青年期を脱し、男になっていきます。青年から男へ・・・しかし、6年先には、ピカソはフェルナンドを捨て、結核で1915年には死んでしまうエヴァを愛します。結核を隠していたエヴァが死にかかっているときにはもう、別の女が・・・・しかし、ピカソ、この小さな白黒の写真で見る限り凄い描写力です。こ、これが・・・・70億円・・・・ウ・ウーン(No632)

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2007年12月21日 (金)

ピカソの恋人 108億円

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 2006年5月5日、NYのサザビーのオークションでピカソの恋人「ドラ・マールと猫」が108億円で落札されました。今まで個人が持っていたんだそうです。ドラ・マールのことは、昨日書きました。
108億円の絵のモデルとしての、ドラの扱いは、それは、酷いものでした。ピカソはしばしばドラを殴り、意識を失った彼女を置き去りにしたりもしました。「ドラは口笛を吹いたらすぐ飛んでくる、「カズベク・・・犬」と同じだ」と放言してはばかりませんでした。シュール・レアリズムの女神は、貶められ、絵の中に、顔も体も怒りにまかせてむしりとられて再現されたのです。
 ピカソのこの時期はドイツ軍がマジノ線を突破して、パリは陥落し、ピカソの家も占領され、大きなテーブルは庭に持ち出されて、兵隊の食事机になっていました。ピカソのやり場のない怒りも、ドラの上に増幅されていたかもしれません。
 ピカソの絵の多くは、絵日記そのもので、日常生活を絵に残していて、面白い事にその年月日を書き込んでいます。青の時代、バラ色の時代、キュビスム、又、クラシックに戻り・・・・エッチング、彫刻、陶器と限りなく変化していきます。池田満寿夫がその著「私のピカソ」の中にうがった事を書いています。「作風が変わらないと、必ず停滞する。だから、破壊しないと前に進めない」・・・ウ・ウーン・・・
 新聞の写真で見るこの絵のドラは、生き生きと綺麗です。まあ、目が、耳の横にあって、こんな現物が現れたら、卒倒するけど・・・確か市場最高額の絵も・・・ウ・ウーン誰だったか???ビル・ゲイツが持っているんだったか??やっぱり男達にとって、天下を獲った、しかも、絵筆一本で、と言うことが、こんな女性の敵であるところも、又々、一層タマラン魅力なんでしょうか。(No631)

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2007年12月20日 (木)

ピカソと「泣く女」ドラ・マール

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 ピカソ、60才前後、1930年代はピカソが一番苦しんだ時期だったようです。「コーヒーを浴びるように飲んで雨のように小便を垂らしている」正妻オルガとは、怒鳴り合うばかりで会話はなく、離婚裁判もピカソには痛烈です。入れ替わり立ちかわり女はベッドに入りますが、ピカソは誰にも満足できません。1933年ヒットラーが政権奪取。1936年、スペイン内乱。フランコがヒットラーに攻撃を要請してゲルニカが爆撃されます。新聞は漫画とタイトルしか読まないピカソが、共和政府の要請を受けてプラド美術館の名誉館長を引き受けます。「パリ世界博覧会」のスペイン館に展示する「ゲルニカ」が描かれました。
 ピカソ苦悩の私生活ですが、1936年、ドラ・マールが登場します。彼女は写真家で絵も描き、知的な美学論争もでき、鮮やかな印象を持って美術界を闊歩していて、恋人もいたのですが、ピカソにとっつかまりました。彼女には特技があって、手の指を広げて、その間をナイフで突く・・というワザを人に見せて恍惚としていました。段々スピードが速くなり、ドラの真っ赤なバラの刺繍をした手袋は血だらけになっていきます。ピカソは、その手袋を譲り受け、ついでにベッドへも、その体を譲りうけました。ピカソ「泣く女」を知らぬ人はないでしょうが、ドラです。最初は美しく真っ赤な爪を強調して描いていますが、彼女も、やがてひっきりなしにヒステリーをおこして「泣く女」に変身していきました。神経衰弱です。「ゲルニカ」は、ドラの写真によって世間に広く喧伝されましたが、「ゲルニカ」を描いている横では、ドラとマリー・テレーズは取っ組み合いのけんかをしていました。どちらがピッカソの本当の愛人かを争っているのです。ピカソが「お前達で決めろ」と言ったから。そして、ピカソは「あんな面白い見ものはなかった」と公言しています。「ゲルニカ」には、ドラの手も入っていると言われています。
 世間的には、向かうところ敵無しでしたが、若い日の恋人、フェルナンド・オリヴィエが「ピカソ・その周辺」と言う伝記を著し、ピカソは激怒。その偶像の本性が、ようやく裸に脱がされていきました。(No630)

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2007年12月19日 (水)

ピカソ 正妻オルガ・コクロヴァの呪い

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 1918年と言えば、第一次世界大戦が始まったのが1914年。パリの絵描き達は次々と愛国心に突き動かされて戦場に去り、そして、すっかり変わって帰ってきました。画商のドイツ人、カーンワイラーは国外へ去り、アポリネールは戦傷死、最も親しく助けてくれたマックス・ジャコブは修道院へ入ってしまいました。ブラックも頭に負傷してパリに戻ります。スペイン人のピカソは戦場には行きませんでしたが、微妙な立場ではありました。第一次世界大戦後のパリはロシア熱に浮かされていました。1917年、ロシア革命起こり、皇帝退位、臨時政府が政権を握ります。ロシアの貴族たちは大挙してパリへ逃げ込みました。ディアギレフ・バレー団もその中にいました。ストラヴィンスキーの傑作「春の祭典」もパリで演奏されます。そんな中、ディアギレフ・バレー団の踊り子であった、オルガ・コクロヴァと出会います。束縛を嫌って独身を通していた36歳のピカソは、このロシア貴族の娘に遂に取り込まれました。オルガが、今までの女性に比べ、ピカソをすぐには受け入れなかったからだといいます。オルガは、バレーでも取り立てて優秀でもなく、絵と言えば部屋に飾るものとしか思っていませんでしたが、したたかな母親が後ろについていました。オルガの望んだのは、優雅な貴族家庭の再現でした。「コーヒを浴びるように飲んで雨のように小便たれてる」っていう事をピカソが気づくのは、早かった。アトリエで優雅に取り澄ましたオルガの傍らにはメイドが、だらしない服装のピカソの横には小犬が2匹、二人の間には共通の言語すらなかったのです。
 多くのピカソの女性たちに、オルガの嫉妬は病的になっていきます。マリー・テレーズが現れ、やがてドラ・マールが現れ・・・しかし、オルガはガンとして離婚を承認しませんでした。財産は半分取られ、逃げようにも、フランスの法律と強力な弁護士の熱弁には、ピカソも勝てなかったのです。オルガの息子ポールも、実に可愛らしく描かれたポートレートを残しているものの、ピカソの関心は子供にはなく、ポールは早くから麻薬と酒に溺れていきました。オルガが、精神分裂病で孤独に死んだのは、1954年。ピカソ73才でした(No629)

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2007年12月18日 (火)

ピカソの生贄 マリー・テレーズ

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 ピカソの代表作に「乙女を陵辱するミノタウルス」というシリーズがあります。ピカソ、40代のシリーズでこの時のお相手がマリー・テレーズです。ミノタウロス・・有名なギリシャ神話の、上半身が牛、下半身は人間という怪物です。ギリシャ、クレタ島の伝説。ミノス王の妃が美しい雄牛に思いを焦がし、王妃はナントカ思いを遂げたいと牝牛の姿を作らせ、その中に潜んで思いを遂げた。やがて生まれた子が半獣半人の怪物であった。それを恥じたミノス王はクレタ島のラビリンス、地下宮殿にミノタウロスを閉じ込め、毎年、少年少女を生贄に捧げた・・・という有名な伝説です。
 マリー・テレーズを地下鉄の駅で、見初めたピカソは例によって、言葉巧みに誘惑します。マリー・テレーズは17才。未成年で、彼女と関係を結ぶと事が露見すれば犯罪です。1928年6月13日、マリーが18歳で法的に成人となった日に事は公になりました。ピカソ47才です。ピカソには妻、オルガ・コクロヴァがいましたのに。
 彼女は、美術にまるで感心がなくスポーツ好きの健康な娘でした。この、乙女を徹底的に陵辱した有様を描いたのが、あの傑作の数々です。彼女が娘を出産した頃、ピカソは新しい恋人ドラ・マールに夢中でした。健康な娘では飽き足らなかったピカソは、教養高いドラ、写真家で画家だったドラに夢中だったのです。ピカソは妻とも、マリー・テレーズとも、ドラとも、歯の浮くような手紙を書いて上手くやっています。その後、ピカソの関心がすっかり彼女から離れた頃、十分なお金も貰えず生活に窮した彼女は、裁判すら起こしています。彼女は、ピカソの死後、4年で首吊り自殺。しかし、正妻のオルガの孫の自殺未遂の治療費を払ったのは彼女であったことは昨日のブログで触れました。ピカソが生きている間はサインも貰えず、売る事すら許されなかった自分を描いた絵を売ったのです。67才でした。ピカソに殉死したといえるでしょう。正妻オルガの子供や孫が、その命を自ら縮めたのに対し、マリー・テレーズの娘マヤは、祖父から離れ、自分自身の道を歩みました。マリーの人となりが善良だったと信じます(No628)

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2007年11月19日 (月)

時雨をいそぐもみじ狩り 園部町船坂九品寺

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 園部町から少し、船坂というところに九品寺というお寺があります。はんなりとした紅色の仁王堂が田んぼの横の小道にチョコンとあって、可愛いあうんのお仁王様がいらっしゃる。ここで、スケッチをしましょうという事になって、メンバーが集まりました。少し早かったので、奥まで上がってみようと入っていきましたら、どこまでもどこまでも・・・奥が深い。壊れかけたような石段に紅葉が散り敷いて、なんとも風流です。「狐にでも化かされてんのやろか」・・と、更に奥へ、急な石段がかなりな高さでそそり立っています。そこを、上がると、美しい観音堂がひっそりとありました。
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 メンバーの一人、お茶の先生が美味しいお薄を馳走してくださいました。
「しぃぐぅれを いそぉぐ もみ狩り
しぐれを いそぐ もみじがり  ふかぁーき 山ぁ路をたずぅねん・・・」
まさに、謡いの一節どおりです。曇り空からは少し、時雨模様・・・美味しい野点をいただき、コーヒーまで楽しんで、会はおひらき・・・何とも優雅な一日でした。
 九品寺は白川天皇の勅願の寺。天皇の皇子の御陵もあって、格調高さはやっぱり・・・今は本堂も失われていますが、昔は七堂伽藍があったとか。一人、観音堂を描いていますと、なにやらこの世のものとも思われず・・・なんとも、静かなお寺でした。(No611)

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2007年6月30日 (土)

生きながら器に撒きついた藤の花

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 昨日、友人がお茶に呼んでくれました。茶道は、4回習い始めて、4回止めたっていう根気ナシのももりでしたが、「気軽に来てね」っていうことで、お呼ばれを楽しみました。
 もう、ズーッと古いことになりますが、焼き物に興味を持っていた時期がありました。骨董も多少は買いました。絵や書をやっていて、陶芸家とお知り合いになることも、よくあったものですから。その中で、全く惚れこんで買った、ある作家の水差しがありました。
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 お茶をやるという事もなく、ただ、その藤の絵に、ゾッコン惚れて買い求めたのです。当時は、今よりは、フトコロ具合も楽だったようで・・・
 ある時、友人に連れられて行った岐阜県の「掌一行」と言う人の釜場。かれは、織部を焼いている作家ですが、その1000坪以上はあるというお屋敷。そのお屋敷は、もう、荒れ放題で、藪には竹が密生し、垣根の椿が巨大な城砦のように屋敷を囲んでいました。その一隅に大きな杉の木があって、なんと、その高いテッペンまで、藤が撒きついていたのです。「これが、咲いたら凄いでしょうね」って、お話した後、工房で見たのがこの藤の絵の水差し。この絵は、この藤の木と生活してる人にしか描けない、と思ったのです。
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ずーっと,時に、お花を入れるくらいで、棚で干物になっていました。自分では使えないのですから。そこで、お茶をやっている友人に進呈しました。そしたら、その水差しのお披露目をしてくれたのです。心尽くしの蕎麦会席、そして、お濃茶、そのあとお薄をいただきました。美しくも可憐なアジサイのお菓子も素晴らしかったですよ。どうやら、あの水差しは、本当に心地の良いお茶室を見つけたようで、本当にうれしかったです。後日聞いたのですが、あの、荒れ放題のお庭は作家さんが有名になられて、すっかりきれいにされてしまったそうです。あの、荒んだお庭・・・なんとも、野趣溢れた豪放なお庭が好きやったなあ。(No610)

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