うそのようなお話
今読んでいる本はもっぱら平安時代。まだまだ荒々しく激しい時代です。うそのような本当にあったお話をひとつ・・・
986年6月23日、午前2時頃・・・天皇様のお住まい、清涼殿からふっと天皇のお姿が消えました。お名は花山天皇。身近な側近や家来が必死になって探しましたが、行方はようとし てしれません。
その少し前、天皇をひそかに連れ出して御所を出て、山科の元慶寺へと連れ出した公達、藤原道隆。
お気に入りの女房を8か月の身重のまま母子ともに亡くした18才の花山天皇は「もう、自分は出家したい」と漏らすようになりました。このお方の父、冷泉天皇というお方は狂疾・・・廃されて16才の花山天皇に譲位されましたが、お子様の花山天皇も多分に偏執的な方だったようです。「うちおとりのそとめでた」見かけは誠に立派できれいな皇子ですのに、奇矯な行いがめだちました。そこで・・・自分の孫を次の天皇に、と野心を抱いた男、藤原兼家、一家をあげての謀略です。
下、御落飾とは髪を下ろして出家すること、ここ、このお寺で花山天皇はむざむざとだまされて髪をおろしました。
自分の孫を次の天皇にと謀った腹黒い豪傑、藤原兼家。3人の息子(多妻ですので、他には何人いたか正式には???)と悪だくみ。まんまと成功です。御所を出た天皇は、鴨川をわたりまっすぐ東、山科へ。侍が護衛して、ここへ・・・元慶寺へ・・・来たといいます。
一度、来てみたかった山科の元慶寺へやってきました。古風ののこる穏やかな土地です。渋谷街道は京都から続く古道。今でも街道筋の風情です。
近くには僧正遍照のお墓もあるはず。僧正遍照は
あまつ風 雲の通い路 吹き閉じよ
乙女のすがた しばし とどめん(百人一首12番)
さ・あ・あ・・僧正遍照のお墓をさがして、エッチラオッチラ。みつかりません。もう、あきらめて帰ろうとの戻り道。立ち話の主婦らしいお二人に聞きました。
「え??これ???目の前の小さな鳥居??」
「ちがう ちがう」ほんの少し先の1メートルもないような細い道のすぐ先にお墓はありました。
小さな円墳です。宮内庁管理らしく綺麗にお掃除はされていますけど、道標もなにもなし。民家にかくれてひっそりと静もっていました。帰宅するころには細い雨・・・あ・あ・あ・・・行けてよかった!!!
元慶寺にあった僧正遍照の「天津風・・」のお歌の碑です。
ちなみに、この豪傑、藤原兼家の妻が「かげろう日記」をのこした道綱の母です。このしたたかな男と渡り合った平安美人・・・たいしたもんやなあ!!!
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コメント
平安からさらに何百年も経った戦国時代には、女性の城主が何人か出て、その戦いぶりは後世に伝わっています。
織田信長の姉もそうですが、なんといってもその強さに「男勝りのマントラ様」と、戦で勝利するたびに地元民に称賛された「上杉謙信」の強さは歴史にに残ります。
ただし、女性であるがゆえに上杉謙信の戦は月に一度だけ休戦になるのが、弱みと言えば弱みだったようです。
投稿: 玉井人ひろた | 2019年12月23日 (月) 16時35分
>一家をあげての謀略
もっと昔からあったことでしょう。御落飾ですか。還俗もあったそうですが、許されなかったのですね。
地元の方はご存じでも、宣伝されてもいない場所でしょう。無駄足にならなくて良かったです。
なよなよの印象しかない平安以降の女性たち、でも、威勢の良い方もですね。何時の時代も頼もしい方はおられましたか。
悪知恵に対抗できる取り巻きを持たれてない天皇も気の毒でした。
投稿: kazuyoo60 | 2019年12月18日 (水) 10時40分