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2018年1月23日 (火)

あの日 京の都では

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何人かの作家の「平家物語」を読み進めてきて、やっぱり一番つっこんでみたいのは後白河天皇というお方。何度も、御所に火をかけられたり、幽閉されたり、絶体絶命という立場におちいります。ところが、この天皇様、誰もが思わぬような対処で逃げ切ります。嘘はつくわ、裏切るわ…都合が悪くなるとスリスリ泣き落とし、どうしようもなくなると、人のせいにする。武器を持たぬ身のつらさ。取り巻き公家衆は屁のような小理屈ばかり・・・え・ええ・・・い!!!どいつもこいつも役には立たん!!!もうアカン!!!というピンチを実に4回、(ももりの知るところだけでも)おちいっています。一度それを年代順に整理してみたくなりました。多分どなたも興味はおもちにはなれないでしょうけれど、パソコンは挿入したり、付け足したり、順序を入れ替えたりはお手のものなんです。ももりの頭よりは、はるかに賢いですからここは‥‥自分のために・・・





1159年12月9日 (平治の乱) 藤原信範と源義朝がおこしたクーデター。後白河法王と二条天皇のお住まい三条殿を襲撃、お二人を軟禁。二条天皇は六波羅へ脱出。法王は真夜中、単独で仁和寺へ逃亡。12月26日の午後、六条河原にて戦い、あっという間にクーデター側は敗北。このとき活躍したのが平清盛。ここから平家の繁栄がはじまります。都大路には60あまりの首がさらされました。平安初期、薬子の乱以来、宮廷の廷臣が処刑されることは300年余りなかったことでした。




1176年(安元1年〉 平清盛との蜜月は終わりました。清盛は福原(今の神戸)に港を構築。宋船との貿易を開始。その大工事は、はじめは清盛の自費でしたが、毎年の台風、大風により清盛、後白河に協力を取り付けます。ところがところが・・・清盛は福原に軍隊を中屯させる腹と、悪く注進するものもあり、法王は言を左右にして認めません。おまけに後白河をとりまく摂関家や、古い勢力は平家を快く思わないやからばかり・・・・当時、もう平家の力は強くなりすぎて、法王だけでなく摂関家や地方の土豪たちも、平家に反感をつのらせていました。

 

1177年 鹿ヶ谷事件(治承1年) 後白河法王を含む取り巻きたちが反清盛を画策。これは未然にもれて、多数の寵臣を処分することになりましたが、法皇を処分することはありませんでした。法王も企てに一枚かんでいたことは確かでしたが・・・



 1179年(治承3年) 11月14日 清盛、突如福原より京へ。後白川法王を
鳥羽殿に幽閉。法王陳謝。後白河法皇の院政は一度停止。平家の軍事独裁です。
1180年(治承4年) 清盛の娘と後白河の息子高倉天皇の間に皇子誕生。後の悲劇のお方、海の藻屑と消えた安徳天皇。6月、清盛は後白河、高倉、安徳を連れて福原へ遷都。ところがところが・・・・


11180年(治承4年)  以仁王、各地の源氏に「平家追討」令を発する。これに応じて続々と源氏立ち上がる…源頼朝、木曽義仲、新宮幸家、武田・・・・平家、風前のともし火・・・
10月、平家は富士川の戦いで、戦いもせず頼朝の軍にやぶれます。も・お・お・・・このあたりから後白河は平家をはっきり見限った???10月の南都の戦いで、東大寺、興福寺を焼いたことは、たまたま延焼したとしても、かえすがえすも大きな失策、ももりだって腹だたしい!!!



1181年(治承5年 
養和1年) 1月15日 高倉天皇死。後白河院政再開。2月4日清盛死・・・



1183年(寿永2年) 法住寺合戦 木曽義仲5万騎は7月28日、京都へ乱入。そこは、ここ3年来の大飢饉。軍隊は略奪、放火、規律のない群盗です。後白河は平家追討の令を出し義仲の軍を西へ追いやり、留守中に無頼の徒や法師を法住寺に集めます。それを聞いた義仲、京都へとって返し、法住寺御所を襲撃。法王を守るはずの無頼の徒はてんでに逃げ散り、火に追われた法王は一人の従者のみ連れて逃げる。義仲追いついて、そのまま五条東洞院の内裏に幽閉21時間。後白河自身が戦ったのはこの戦いだけだけど、これは散々・・・ところが・ところが・・・法王に追いついた義仲は、よろい、かぶとを脱いで、法王を保護・・・・ってんだから日本史はおかしい!!!


なにしろ、今日の味方が明日の敵。反復つねなきドライな自己保身。義理も人情もありません。
 治承4年 11月17日  頼朝追討の宣旨を平家にくだす
 平氏に木曽義仲追討の宣旨をくだす
 木曽義仲に頼朝追討の宣旨をくだす
 頼朝に木曽義仲追討の宣旨をくだす

 

1181年(養和1年) 自然災害で年号を代える  干ばつ、洪水。
仁和寺の僧侶による       と餓死者は42300人・・・
      
1182年(養和2年) 「道路ニ餓死者充満セルホカ 他事ナシ」・・・公卿日記から
寿永1年 5月27日改元          9月14日 源氏追討令


1183年(養和3年)平家が幼い安徳天皇をつれて
西ににげたので、後白河は故高倉天皇の四の宮を天皇にたてます。後鳥羽天皇6才・・・




 

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コメント

年代別に整理をしていただくと 私の脳にも入りやすくなります^^ ありがとうございます^^ インプットは出来たつもりですが アウトプットが怪しいですが これが不思議
突然のアウトプットも有るのですよね(^_-)-☆

 ”惚け脳 アウトプットも 唐突に” 入れておくは肝要かもww

創作意欲も蘇って来られましたか・・・良かったですね^^
何よりうれしい事ですね。 

投稿: すみとも | 2018年1月29日 (月) 10時33分

年代順に出来事を、並べていくと 分かりやすく
なりますし、頭の整理になります。私も宮城谷さんの
晋から春秋戦国時代の物語を、年表にまとめました
水彩画の制作にじっくり取り組めるように、なれたのも
喜ばしいことです。

投稿: あきみず | 2018年1月26日 (金) 11時52分

いろんな世の中、いろんな人生があるもんですね。
それにしても、餓死者の数が・・・
それが、まるで何でも無い事とされて・・・
パソコン駆使されて素晴らしいわ。

投稿: くちかずこ | 2018年1月25日 (木) 21時00分

確かに付けたり省いたりはお手の物のパソコンです。ドラマではあくどい手法で危機回避なさってます。が、天皇は犯しがたい存在だからかなと勝手に思っていました。周りの誰かが権威を利用して、邪魔になると排除を試みる、そう思っています。
何でも高い、野菜も高いですが、買おうと思えば品はありますものね、今は。

投稿: kazuyoo60 | 2018年1月23日 (火) 16時30分

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