高麗美術館へ広開土王碑の拓本を見に
堀川通りを北へ。北大路通も北山通もこえてしばらくいきますと、しの竹が密生した大きなお屋敷があります。ここが「高麗美術館」。一度は行ってみたいと思っていましたが、書のお仲間と行ってきました。
好太王碑・・・広開土王碑・・・とも言います。4C末から5C初の高句麗19代の王。392年から413年まで在位。広開土王の偉大なる業績を記録した巨大な石碑で、所在地は中国吉林省集安。満州族発祥の地といいます。この拓本が展示されたということすら、ももりには初耳でした。
まず、驚いたのはその碑の巨大さです。4面に1700余文字が刻されているそうですが、1文字は10センチ以上、篆書ではなく、扁平な楷書で、まああ・・・読みやすい????ももりにはムリですが・・・文字です。
この碑には倭という文字が多くあり、古代日本とのかかわりに関心をもたれました。その中に書かれている問題点は・・・
391年、辛卯 倭人 海を渡り、百済、加羅、新羅を破り・・・・・とあるところだそうです。つまりぃ・・・日本がはるばる朝鮮の国土へやってきて激しい戦いがあった・・・どうやら・・・相当・・???後は、ウィキペディアへどうぞ。学問的に説明するには、いろいろむつかしいらしく、しかも歴史観には非常に神経をとがらせている国が相手でもありますので。
下は、今読んでいる本です。平安時代、遣唐使を中止して以来、日本が積極的に 海外派遣を試みたという記憶は、日本側から見たら秀吉の朝鮮出兵や倭寇ですが、もっと古代にさかのぼると、朝鮮半島と日本には、もっともっと激しい人間の移動があった・・・つまり、日本にやってきた百済人や新羅は多かった・・・・つまりぃ・・・・蘇我氏は巨大な勢力をえて、朝鮮半島も日本をもひっくるめた「日本」という国をたてるべく構想していた・・・と、いうお話です。
ま・あ・あ・・・天智天皇称制の頃の「白村江の戦い」・・・時代は200年近くくだりますが、唐と新羅の連合軍に、二コッテンパネクソにやられて幽霊のようになって破船が日本にただよいついた…一体???なぜ・・・わざわざ海を渡って朝鮮半島まで出ていった???
高麗美術館 在日朝鮮人1世・故鄭詔文氏が創設。主として高麗、朝鮮王朝時代の美術品を収蔵。陶磁器、絵画、金工品、石造美術品のほかに家具、民具類もあり、所蔵品は約1700点。年に3回展示替を行う。朝鮮半島で育った「美」を専門に・・・とあります。
| 固定リンク
コメント
当時の船では心もとなくとも、倍する意欲が双方の人を渡らせたのでしょう。
もし、叶っていたら、朝鮮半島と日本は1つの国になっていたかもなのですね。
投稿: kazuyoo60 | 2017年7月18日 (火) 16時04分