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2016年7月15日 (金)

フッルーイお話

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 昔・むかし・・・・ももりはカルセンババーとよばれるカルチャーセンターの生徒でした。教室は「エッセー教室」10年ほど在籍し、その間、5年ほど「京都エッセー」の同人でしたっけ。
 ちょうどNYで個展をしたころで、当時のエッセー(15号)から・・・


 天国と地獄

 月のかけらがポトリと懐に飛び込んだような、現実離れしたラッキーな経験。去年の私は、まさしくそんな幸運の中にあった。
 11月4日、4~5日前から腰が痛むと寝込んだ姑が悲鳴をあげて痛がるようになり、亭主と息子二人がかりで病院へ運ぶべく、1時間あまりもやっさもっさしたあげく、とても無理と救急車をよんだ。若い屈強の看護人3人がかりで、痛い痛いと泣きわめく姑を担架に乗せて、救急車は出て行った。
 幸運はその直後に始まったのである。
「もしもし、こちらNYのSですが8月にもって来られた作品を、この12月に展示することになりました」 
 この8月、NYで個展をしないかという以前からの話の下調べに、私はNYへ行った。その時、ふすま10枚分くらいの作品を抱えて行ったのである。その作品が画廊のオーナーの目にとまり、今回、急に展示されるのだという。
 「つきましては、お手持ちの作品をできるだけ多く送ってください。そして、もうちょっと小さい作品を急いで作ってください。ムリでしょうか」
 「勿論つくりますよ。何とかしますよ。べストをつくします。」

 茫然としていた私は飛び上がった。目の前には姑の残していった汚物や下着が散乱している。
「さあ、片づけなくっちゃ。あの様子では、姑は二度とこの家には帰れまい」 汚物を片づけ、洗濯ものを洗濯機に放りこみ、まくらもとの食べ散らかしを全部ゴミ袋に押し込んだ。熱い湯で畳まですっかりふきあげた。この4~5日、なれない病人と看護人は、何度となく畳におしっこをこぼしたものだったから。冷蔵庫のいつからあるかわからないものを捨て、カーペットをはがし、仏壇まで磨き上げた。25年間、姑はこの部屋から餓鬼のごとく小さな目を光らせて、私を見てきたのだ。


  結婚当時は、まだインテリアデザイナーという言葉が脚光を浴び始めたころだった。国立大学を出たてのデザオナ-の卵から、心貧しく、到底誇りの持てない下町の嫁の生活へ。この中でアートは私のたった一つの敗者復活戦だったのだ。全く異なった環境だった。誰が選んだのでもない。私一人が喜んでした結婚だったが、つらかった。何よりも夢と誇りのないのが我慢できなかった。経済的にも、何とかかせぐのが急務だった。子供相手の書道教室、そして、古筆の勉強、次々に生まれた子供たちが寝静まってから明けがたの空があじさいい色に染まるまで、私は一生懸命勉強した。若さは苦しみすらも滋養にしてしまうものらしい。 子供達の手が離れたころ、私は作品を発表するようになった。姑の存在が小さくなり、アートは私を満たした。そして、今、NYで個展というときになって、姑は再び、私の前に立ちふさがろうというのか。


 外は木枯らしがふき荒れている。激しい思いに突き動かされて、姑の匂いすら出て行けと、窓を開け放った私の耳に、電話のベルがなった。「今から帰るから、上着を持って迎えに来てくれ」


 背骨がつぶれていく病気には、治療法らしきものはない。痛いだけの病気にはベッドはないのだそうだ。潰れた骨が固まって、痛みが治まると少しはよくなる。三度の食事からしもの世話までしながら、私は必死でNYへの作品作りに取り組んだ。何ものかにつかれたように何点かの作品ができていった。
 同時に、実に奇妙な変化は私の中におこった。あれほど嫌がっていた姑の世話ができるのである。自分はきっと鬼嫁になると思っていた。あんな人に哀れみをかけるなんてできっこないと思っていた、。しかし、この歯のない間の抜けた口を開けるだけの哀れっぽい存在にかゆを流し込み、15分おきに、三種類の目薬を落とし、小便をとる。大便をとる。私にこのことをさせるのは何か。愛情というようなきれいなものではない。私は天使にはなれない。一家の主婦としての責任感かもしれない。火の粉のふりかかった家には水をかけなければいられないようなものかもしれない。愛とは、愛を与えるものの方に生ずるものなのかもしれない。
 しかし、それにしても、何と醜い。大便だって若くないしりからは、すっとでやしない。20分余もかかってチビチビでるし、その間、前からは小便がずっともれているのだ。
 


 「いたあい、いたあい、いたたたたああっ」 
階下で姑は地獄の痛みに泣き、2階で私は作品をつくる。アートにはエクスタシーがある。この人の生涯が不幸なものだったとは思えない。姑の不幸とは、満足することが無かっただけなのだ。内なる充足のない魂を、人は外から救えない。「いあたあい、いたい、いたいいっ」



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 どうですか????ももりの正体

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コメント

先日ブログ拝見したのですが
余りの壮絶な時間を過ごしたと思うと
コメントできませんでした
ももり様って本当に素直な
そして自分を客観的に見つめることのできる
素敵な女性だと改めて思いました
貧乏には耐えられますが生活の中に
誇りが持てないの悲しすぎます


投稿: おばさん | 2016年7月17日 (日) 20時34分

このようなご苦労がおありだったのですね!
本当に大変なことでした!
姑さんはきっと痛いのも貴方のせい・・・と思っていたかも知れません。
お下の世話をされるのはたまらなかったと思います、
よくおやりになりましたね。
私の場合 実母でしたし徘徊が主で これには方向音痴の私は困りましたbearing
でも下の世話は最後までかけずにいてくれたので、
ある意味幸せだったと思えます。
このようにご自分の気持ちを吐露して晴らしていくのも大事かと・・・

投稿: nyar-nyar | 2016年7月16日 (土) 16時51分

ももりさん、息を詰めながら読みました。
あの笑顔の後ろに壮絶な人生が・・・。
自分の正直な心を吐露し、それも冷めた目で自分を見ているというスゴワザ。
こうでないと人の心を打つ、えぐるという文章は湧いてこないのですね~。とにかく感動しています。
私なんかよりずしりと濃く、重たい実人生を経験されているだけに、取ってつけたような文章でなく、正直な誠実さがあります。

よくぞ発表してくださいました。
エッセィだけをまとめて本にされたら!きっと人の心を打つばかりか、支えにもにもなると思います。
介護の人にとってはきれいごとでなく、真実の叫びが欲しいのです。

投稿: ちゃぐまま | 2016年7月15日 (金) 15時43分

壮絶な看護を経験なさいました。家での世話となるとご主人さまでもお子様でもなくですものね。威張られてたはずの姑さんが~痛い病に。何とも皮肉で気の毒です。
治らないと分かってるのに、母もガン最末期の痛みに、なぜ鎮痛剤やモルヒネをけちるのかと、看護師と喧嘩したくなりましたよ。現実は頼むよりなかったですが。医師は痛み緩和ケアしますと言ってくれていたのに。思い出しても腹立たしいです。

投稿: kazuyoo60 | 2016年7月15日 (金) 14時47分

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