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2013年6月29日 (土)

アトリエ桃源展  会場便り

 下はKさんの作品・・・さ・あ・あ・・・何処の国なのでしょうか???アラブ???東アジア???コラージュを効果的に使っています。

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 同じ、Kサンの作品。「ハイデルベルグ城」ですって。旅って絵心をかきたてるものですねえ。


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 下、これは又、Kさんとは対照的なNさんの作品。お孫さんの成長記録でもあります。こんな絵こそ、先ず描きたいとおもわせるモチヴェーションですよねえ。


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2013年6月27日 (木)

アトリエ桃源展  会場便り

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 上、まだ、初めて間もないMさん・・・・この絵、ダイッ好キ。ももりの絵と引き換えにいただくことにしました。これから、ももりの家の玄関で、いつもにこやかに「イラッシャーイ!!!」って笑ってくれることでしょう。


 長く展覧会に所属していたりしますと、いつの間にか展覧会向きの絵を描いたり、玄人っぽい見方をして、子供のままの感動を忘れてしまうようになりがちです。でもこの絵は、正しく「絵」の原点、とても明るくて「描きたいっ」と云う気持ちにあふれています。ダーーイスキ!!!ももりには、もう、描けない絵なのよねえ。

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 この絵は、Tさん。さ・あ・あ・・・3年ほど???お孫さんとのドライブ。楽しそうじゃありませんか!!!

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2013年6月26日 (水)

アトリエ桃源展  会場便り

  昨日、賑やかに第1日目を終えました。ご来場の皆様に心よりおん礼を申し上げます。


 ありのままの状態で見ていただきたいと、相当なキャリア組から、まだ初めての方まで、わけ隔てなく展示しています。その中から、いくつかをご紹介しまししょう。
 下はキャリア組、Sさん。彼女は音楽をやっています。広大な大草原・・・なんだかドヴォルザーク「新世界」が響いてきそう・・・じゃありませんか???

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  下は90才になってもまだまだ元気なKさん。その優しいお人柄は見習う所ばかり。どうですか・・・この素晴らしい生命力!!!

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2013年6月25日 (火)

アトリエ「桃源展」今日から

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今日からももり達のお仲間のグループ展です。
場所 京都寺町三条上がる「ギャラリーカト」
  30日(日)まで。


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 昨日、みんなで賑やかに飾りつけ。おっとっと・・・写真撮るタイミングを逸しました。メンバーが半分ほど帰ってしまってから気がついたものですから。

 その後、三条寺町西入る 旧毎日新聞社2階  「チョコラ」でお食事会


 お店にお願いする時、「平均年齢は高いし、ほとんどが主婦やから、お料理のヒントになるようなのがうれしいわ」と言っておきましたら、ハーブがいろいろ使われた新しいおしゃれなお料理!!!それも・・・あまりのおいしさに、おしゃべりにも夢中になって食べてしまってから・・・写真!!!・・・と云う次第でした。


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2013年6月22日 (土)

訂正 そして お詫び

  6月14日の記事
  「 ビザンチン帝国は555年、イタリア半島にあった東ゴート王国を亡ぼし、ここ、ラヴェンナに首都を置きました。」この記事は真っ赤なウソでした。お詫びいたします。マッタク・・・ロクに知りもしないで書いて・・・ハ・ズ・カ・シ・・・

  「東ゴート王国は、ここ、ラヴェンナに首都を置きました。」に訂正します。 


 今回、いろいろ読んでみて、改めて目からウロコ・・・歴史って凄い!!!そしてもっと知りたいと思うに至りました。
 東ゴート、西ゴート・・・歴史の中で、一刻、目覚しく活躍し、そして、その姿を消した・・・いえいえ、「ゴチック」というあまりにも普遍的に使う言葉に、その歴史を刻んでいます。


 ちょっと、上手く説明できるかどうかわからないけど・・・書いておきます。記事は、あらかた、現地で買った本によります

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 民族大移動、あるいは、蛮族侵入の時と言われる・・・渦巻くようにいろんな民族がヨーロッパを引っかき回した日々・・・
 バルト海からドナウ川上流にいたランゴバルド・・・これも、今もロンバルデイア地方と云う名になって残っていますが・・・・や、西ゴート族、黒海の北には東ゴート族、他にもいくつかの民族集団が、4世紀、フン族に押されるようにヨーロッパへ押し寄せます。


 370年に分裂したばかりの西ゴートと東ゴートですが、西ゴート族の大部分はローマ帝国に保護を求め、ドナウ川を渡って帝国領に、一方、東ゴート族はフンの帝国が滅亡するまで、その支配下にありました。


 ローマ皇帝ウアレンスから盟約者の待遇を取り付けた西ゴートは、すぐ、ローマ皇帝を裏切り、378年、アドリアノーブルの戦いで、ローマ軍を殲滅。アラリックが409年、イタリアに侵略、419年にはローマを略奪。この時はラヴェンアは攻撃を免れます。
 ローマ皇帝、テオドシウスの妹、ガッラ・プラキディアは捕虜になります。彼女の廟をラヴェンナで見ました。スケッチは下。この敗北は476年の西ローマ帝国滅亡の前哨戦でした。

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 西ゴート王国のテオドリック(493~525在位、555年には亡びます)・・・が、一時ミラノに、そしてラヴェンナに首都を置いた・・・ということのようです。やがて・・・オドアケルがラヴェンナを支配。その後も戦いは続き、実にナポレオンまで、果てしない略奪が続いたといいます。

 一方、捕虜になったガッラ・プラキディアは、アラリックの息子、アタウルフォと結婚させられます。アタウルフォが死んで、ローマへ返され、コンスタンチヌス将軍と結婚、コンスタンチヌスが死んで、異母兄、ホノリウスの元へ逃げるが近親相姦を嫌って、父テオドシウスの元へ逃げ帰る。そして、ラヴェンナに連れ戻される・・・とあります。
 息子、コンスタンチヌス3世が西ローマ帝国の皇帝になると、摂政として実質的に支配します。ゴートとローマの緊張を押さえ、450年、11月27日に死んだと、ありました。歴史のはざまに登場したラヴェンナのヒロインです。


 476(死なむ)に、ローマ帝国が滅んだことは頭にあったものですから、東ローマ帝国の首都であった、と、勘違いした次第でした。ラヴェンナは、実に、それより古い都だったのですねえ。今回見なかったのですがラヴェンナには、テオドリックの墓というか、廟があります。


 

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2013年6月17日 (月)

花の都 フィレンツェ

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 フィレンツィエといえば、メディチ家、メディチ家といえば、ロレンツォ・デ・メディチ。上はロレンツォのデスマスク


 フィレンツェから、7キロアルノ川を下るとピサ。斜塔で有名です。港を持たなかったフィレンツェは海辺のピサを従えたときから発展を始めました。ドラマチックな人たちがたくさん登場します。


 先ずは、コシモ・デ・メディチ・・・フィレンツェ人から「祖国の父」とよばれます。バチカンの経理に食い込んだ銀行家で大金持ちになりました。背が低く猫背、真っ赤な頭巾を被っていたと言います。
 彼は藝術家を保護育成し、初期ルネサンスと呼ばれる時代をもたらしました。ジョットが活躍します。下は、ジオットの塔 当時の藝術家は絵や彫刻だけでなく建築や、戦争の時には武器や城塞の設計もしたそうです。

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 その孫、が、上のデスマスクのロレンツォ・デ・メディチ  「豪華王」と呼ばれます。

 わかい日は 美しいものだ というが
 いつまで そんな日が つづくものか 
 今日を楽しむしか ないんだよ
 明日の命だって  わからないから

 そんな流行歌を作ったのも彼だといいます。
しかし、パッツィ家の陰謀によって花の聖母寺で、弟ジュリアーノ共々襲われます。彼は傷つきながらも逃れましたが、ジュリアーノは殺されました。体に19もの刺し傷があったといいます。下は花の聖母教会

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 ジュリアーノが「シロストラ」と呼ばれる馬術競技で優勝し、シモネッタから優勝の冠をもらったというサンタ・クローチェ教会。その詩をもとに、ボッティ・チェルリの「春」は描かれたそうです。
 花を振りまいているのがシモネッタ。左端の男性がジュリアーノ。スケッチ、下、サンタ・クローチェ教会・・・・あ・あ・あ・・・・この場所で華やかな馬術競技が行なわれ、フィレンツェの繁栄の極みの時を過してたのよねえ。

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 スケッチ下は、洗礼堂


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 ロレンツオは1442年43才で死にます。息子、中風病みのピエロは、可愛そうに不肖の息子呼ばわりされて、フィレンツェから追放されました。父の死の5年後です。
 フランスからシャルル8世が攻め込んで、あっという間に降参したから。ピエロはローマに逃げました。シャルルはフィレンツェ人が意気軒昂なのに辟易してローマに直行しました。


 そのあとのフィレンツェを仕切ったのが怪僧、サボナローラです。サボナローラは、如何しても朝原彰晃を思い出させて仕方がない!!!たくさんの芸術品をシニョーリア広場に積み上げても燃やしました。サヴォナ・ローラについては後ほど・・・

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2013年6月15日 (土)

フラ・アンジエリコ・・・・感動しました

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  フィレンツェに来たのは,、なんと!!!30年ぶりです。朝、枕元で教会の鐘がガンガン???響いてビックリ仰天、目を覚ました記憶があるくらい。あまり記憶がありません。ま・あ・あ・・・スケッチは少ししたので、やっぱりなつかしい!!!


 今回、素晴らしかったのは、サン・マルコ修道院。此方へ絵の勉強をしにやって来たというお嬢さんガイドさんの真摯な説明もとても嬉しかったです。お嬢さん!!!頑張って!!!
 
 修道僧で画家であったフラアンジェリコが、修道僧の各部屋にキリストのお話をフレスコ画に描いています。画集で見ていたのとは全然印象が違います。なんとも清らかで、可愛い。下スケッチは修道院の中庭

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 フラ・アンジェリコ。ももりの画集から。アッチコッチで描いたんやろねえ。/strong>

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 下はフラ・アンジェリコのデスマスク。
ちなみにサボナ・ローラもこの教会ので修行したんですって。火刑の絵や、着ていた僧服も展示されていました。アイツがいなかったら、ボッティチェルリのヌードデッサンなんかも一杯残ってたはずや!!!

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 午後からは自由時間。美術館は何処も行列で入場待ち。ももりは、ひたすら歩き回ることに・・・それは次回

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2013年6月14日 (金)

ももり18才のテオドラ君

 なんとか、ホームページにも、この旅を時系列でアップしました。まだ書けていない部分もありますが、ぜひぜひ・・・ゼヒゼヒ。左、お気に入りの「山口ももりのホームページ」 からどうぞ。今回 この旅を選んだのは、ここ、ラヴェンナが旅程に入っていたからです。そして、その期待は思った以上で感動しまくりでした。


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 ももり18才、受験勉強にうーんざりして、もう、大学の授業なんてかんにんしてえな、という一回生の新学期、西洋美術史の時間が河本敦夫博士の、ラヴェンナ。もう一学期間、ずーっとラヴェンナ???だったような???   


 ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会・・・何度も何度も聞いた言葉です。授業はスライドで、当時、そんなに貴重な物だとも思わずに・・・先生、ごめんなさい・・・

 その中のテオドラ皇后


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 テオドラ皇后によく似た建築科の男の子がいて、「テオドラ」とあだ名をつけてよんでいました。かっこいい子やったんよ・お・お・・・

 その後、シチリア島やギリシャで、ビザンチン芸術、モザイク画に触れるに至り、これはこれは・・・!!!ガラスや鉱物、特にガラスの間に金を挟んだ金ピカのモザイク画の美しさは例えようもありません。日本にはやってくることが決してない、建物にはめ込まれて動けないモザイク画・・・これは此方から出かけるより他にありません

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 476年(死なむ、と憶えます)に傭兵隊長オドアケルの脅されて西ローマ帝国は消えました。しかし、コンスタンチノープル(ビザンチウム)には東ローマ帝国が残っています。東ローマ帝国、すなわち、ビザンチン帝国は1453年(ひと夜明ければごみになり、と憶えます)まで生き残ります。


 ビザンチン帝国は555年、イタリア半島にあった東ゴート王国を亡ぼし、ここ、ラヴェンナに主都を置きました。
10年後、ゲルマン民族の一派、ロンゴバルド族が、ポー川を越えてイタリア半島へ押し寄せます。今のロンバルディア地方(ミラノの辺り)、パヴィアに新首都を建設、ラヴェンナを奪います。その後、ロンゴバルドは力をつけ、ローマをもおびやかすようになり、困ったローマ教皇は、外国勢力、当時の絶対的な強者、ピピン(フランスの王、カロリング王朝の始祖)に援助を求めます。
 774年、フランク族のカール、(ピピンの息子でカール大帝と呼ばれ、今のフランス、ドイツ、イタリアをほとんど支配した一大英雄)がロンゴバルド王国を亡ぼす・・・という具合。カールの支配はスペインにも及んだため、後々、イタリア半島はこれ等の大国の侵略の手にしばしば亡国の危機の陥ります。
 

 ま・あ・あ・・・・・そんな群雄割拠の時代、あわよくば、ローマ教皇の力によってイタリアを統一しそうになったのが、チェーザレ・ボルジアと云うところでしょうか。しかし、悪性のマラリアに倒れた父の死後、同じ病気で亡くなりました。32才でした。いまでも、イタリアではシーザーよりチェーザレのほうが人気があるんですって。

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2013年6月13日 (木)

保険はなかったエトルリア人

お向かいの奥さんが「樋が酷うなってるでえ」って教えてくれました。ジェジェジェ!!!!大きく割れてはねだしています。
「何時やられたんやろ???当て逃げやねえ」ももりの家は通りに面していますので、大きなトラックがブチ当てて、家人が文句を言わないから、とっとと逃げてしまったに違いありません。


 放っても置けないので、樋屋さんに見積もりをしてもらいました。樋屋さん曰く
   「奥さん、保険に入ったらしませんか???火災保険とか」
   「火災保険入ってますよ」
早速、保険会社に調べてもらいましたが、10万円以下は免責とかで保険は下りないんだとか。


   「共済組合の保険なら、こんなのすぐ出まっせえ」ですって


 ッタクーーー!!!
一銭も保険金を受け取ることなく40年以上もかけてきた保険は止めて、新しい保険に入りなおすことにしました。知らないと損するんですねえ。皆様も一度お調べアソバセ。


 エトルリア人の生活・・・保険なんてなかったんやねえ。現代人としては、ももりはまるで・・・ダーメ

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 チビタ・バニョレッジョ・・・天空の村の奥に「エトルリア人の住い跡」の洞窟を見学。

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 ブドウ酒を作った樽???や、オリーブの実をすり潰す石の台とか・・・様々な鉄の生活器具が壁にかけてあります。こんなのを見るのはダイッ好きです。ほら穴は更に下へ、奥へと続きます

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2013年6月12日 (水)

アオスタ渓谷を越えてチビタ・バニョジェッジョへ

遠くに見えるエトルイリア人の町、トディ 小高い山の上にはいくつものこんな町が見えます。
エトルリア人・・・この言葉を聞いたのはもう・・・15年ほども前でしょうか。「エトルリア美術展」を見ました。ローマ人がやってくる前にこの地に住んだ古い民族、エトルリア人達の作ったお面は、奇怪な風貌で、少しはギリシャ的???とか思った記憶があります。

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のおんびりした農村風景。イタリアって農業国なんやなあ!!!

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チビタ・バニョレッジョに着きました。小さなトラムに乗って、山上の幻の村に行きます。下はトラムの乗り場。
 近年、フランスやイタリアでは盛んに「美しい村」を観光の目玉にしています。住人がいなくなってそのまま荒れていた小さな村は遠い人々の記憶を想い出させて、とてもロマンチック・・・けど・・・ま・あ・あ・・・・膝にはこたえる。登り、上り、下り、くだる・・・

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 深くえぐれた谷をまたぐ一本の細い橋。けど・・・昔はこんなのもなかったんやろ???


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 村の入口を「ガーン」と閉じてしまったら、敵は攻め込めないやろけど・・・わかるけど・・・生活は大変やなあ

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 この村の中に「エトルリア人の住い」跡の洞窟がありました。次回をゼヒゼヒ

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2013年6月11日 (火)

ルビコン川を渡ったか

 スケッチはリミニ

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 ここ、リミニとラヴェンナの間にルビコン川が???旅の添乗員さんがくれた地図に、ルビコン川と書き込んであって、「アレレッ・・・ルビコン川ってこんな所にあったの???」って、ももりは思わず素っ頓狂な声をあげました


ジュリアス・シーザーがガリア(ほぼ今のフランス)遠征に成功し、ルビコン川まで帰ってきた時、ローマの政界は乱れまくっていました。高い官職を金で買うのに広場にお金を積み上げ、恥ずかしげもなく民衆を買収、買収された民衆は、別の一派に剣で渡り合うという有様。
 ガリア遠征は大変な大手柄で、シーザーの人気は一気に上がりました。


 シーザーは、次の執政官に立候補する決意を宣言。元老院とポンペイウス一派は、「もし執政官になりたければ、軍団を手離し、一人でローマへ帰って来い。武器を捨てないなら国家の敵」とまで言われた。ルビコン川は、ガリアとローマの国境の川で、軍団を弾いてわたれば謀反です。


 さ・あ・あ・あ・・・どうする???シザーはわずか300の騎兵と5000の歩兵を率いてルビコン川の北岸に立っていました。時はBC49年、1月10日。
 「ルビコン川を渡る」とは「賽は投げられた」と云う日本語と同じでしょうか???

 ルビコン川は、リミニからラヴェンナに行く途中です。
でも、今では、小さな川になってしまっていて、しかも、高速道路からではわからないんだそうです。誰だったか???ルビコン川を探しに行ったけど、小さな石碑が立っているだけ・・・と云う文を読んだような記憶があります。
 あ・あ・あ・・・・無情・・・歴史って面白いですねえ。


 スケッチはリミニ。下はシーザーとももり。ここからラベンナへ、豊かな田園風景は360度に広がっています。イタリアって見事な農業国なんですねえ。


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2013年6月 9日 (日)

オルビエート・・・宗教は人を救うか

 下はオルビエートのドゥオーモ。左右の正面下部の壁面彫刻が凄い。イタリアゴチックの代表作ですって。天国へ行く人と地獄へ墜ちる人を選別しています。オッソロシ!!!ももりは・・・さ・あ・あどちらへ??
正面はモザイク画。モザイク画の最高傑作ラヴェンナへも行きましたのでモザイクについてはそちらでお話したいです。

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中世の庶民の生活は??朝は太陽と共に起き出し、一日中働いて、教会の鐘に祈りを捧げる短い一生・・・・人間はそもそも罪を背負って生まれてきているから 神に祈るだけが救いの道・・・・そんな事言っておいて、えらいボーさんたちは贅沢三昧。地獄に落ちるのはドッチやろ???

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2013年6月 8日 (土)

ドラマの舞台

 今回の旅は、1500年前後、イタリアを狙う外国勢の餌食となった戦いの町を巡る旅でもありました。
先ずはあつかましいフランス。腹黒いイル・モーロの一族???失礼・・・ミラノと手を組んだフランス軍が侵入。なんとかお帰り願ったその後は、スペイン、神聖ローマ帝国が侵入。
 小国分裂状態のイタリアは、それぞれ、自分の領国の安泰、伸張のみを画策して、裏ぎりと閨閥、エゴ丸出しの弱肉強食です。下は、ドラマの舞台、オルビエート遠望

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1500年前後のイタリアはとてもドラマティックです。塩野七海さんも何冊かか書いてらっしゃいますが、しかし、まあ・あ・・・読みづらい。人名、地名が難しく、同じ名前の別人も多い。閨閥が複雑怪奇に絡まりあっていて、ももり如き頭では理解が進みません。オルビエートの町に入りました


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下はオルビエートの洞窟レストラン。おいしかったのよ・お・お・・・

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 当時、フランス、イタリア、神聖ローマ帝国は領土的野心を隠そうともせず、イタリア各地の諸侯に手を回しています。そんな中、ローマ教皇の権威は地に落ちていました。正式の結婚以外に何人もの庶子を養い、権謀術策に憂き身をやつす、贅沢三昧な生活。無能な教皇の後を継いだのがチエーザレ・ボルジアの父、法王アレッサンドロ6世でした。


 アレッサンドロとチェーザレは、先ずは当面の敵、フランスのイタリアへの干渉を除こうとします。、庶子であったチェーザレですが、非常に美しく冷徹、軍事の天才でした。今回の旅、ボローニャ、オルビエート、ペルージャ、ラヴェンナ、ボローニャ・・・今回、チエーザレの活躍の舞台をタックサン回わったのよお・お・お!!!
 ちなみにチェーザレはシーザーのイタリア語読みなんだそうですよ。 ここ、オルビエートもチエーザレの占領下にあった時期がありました。

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2013年6月 6日 (木)

花咲き乱れるオルチャ渓谷を越えてピエンツァヘ

ピエンツァは、 小さな小さな村。さる教皇ガ理想郷を造ろうとしたが3年ほどで挫折ですって・・・ソリャア・・・こんな崖っぷちじゃあ・・・大変やったやろうなあ・・・下は村の入口。レストランでは美味しいお食事・・・ご・き・げ・ん・・・でぇーす


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フランスでもイタリアでも、今、観光資源として、取り残された中世のままみたいな村をアッピールしています。長い戦の日々には要塞であった山の上に、忘れ去られていた中世。とても魅力的ですけど・・・マア・・・坂道ばっかり。万歩計を持ってた方によりますと、今回の旅、ほとんど毎日2万歩~・・・ま・あ・あ1万歩以上でした。ついて行けて良かったです。


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2013年6月 4日 (火)

シエナからサン・ジミニャーノへ

シエナという町は、ローマのオクダヴィアヌスに統治される前は、古民族、エトルリア人とガリア人が、定住していたと言います。ローマ統治時代は幹線道路、アウレリア街道とカッシア街道から外れれていたので、発展は遅れました。やがて、ランゴバルド族が大挙してやってき、その後ビザンティンの襲撃にも直面し、ローマの旧街道の衰退もあって逼塞したようです。774年、ランゴバルドは、カール大帝に降伏。シエナはフランク族の押さえる所になりました。やがて、宿敵、フィレンツィエが、教皇派を、シエナは皇帝派を名乗リ、13世紀、都市の素晴らしい発展があったといいます。
ランゴバルドが、今のロンバルディア地方って言う地名になって残っているっていうのが嬉しいよねえ。

下はシエナ、有力な貴族、チーギ・サラティーニの屋敷の中庭。1300年代、シエナゴシック様式ですって。右の回廊の天井のフレスコ画が素晴らしい!!!スケッチではとても描けないのがグヤジイ。下はももりが珍しくも撮った写真。

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その後、メディチ家のコジモ1世が統治・・・1569年にはトスカーナ公爵となった・・・とあります。

サン・ジミニャーノにやってきました。中世の頃は74本の塔があったといいます。今14本。力を誇示するための塔なんだとか。下は塔の上から見たトスカーナ地方。膝がイマイチで、いつの間にか人より送れて最後をトボトボ歩いているももりですのに、塔を見たら登りたくなる・・・ハ・ハ・ハ・・・・


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2013年6月 3日 (月)

中世にヒラリ

小さな村役場みたいな フィレンツェ空港から、バスで1時間あまり。シエナです。


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シエナのカンポ広場。正しく塩野七生さんの、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」の最初の場面。若きチエーザレが、正しくここにカッコヨク登場します。


・・・広場には、塔が長く影を落としていた。夏の夕暮れである。
湖にいくつもの川が流れこむように、このシエナの町のカンポ広場には、11を越える小路が集まり、その石畳の道を通ってくる風が、中心に向かって緩やかな勾配をなしているこの扇形の広場を涼しく満たしはじめていた。・・・八月16日に行なわれるシエナ市主催のパ-リオ[競馬]出場の為の練習・・・をしている、若きチェーザレです。
その石畳を、今、ももりも歩いていると思うと、もう、嬉しくて・・・・

やがて、チェーザレは、父、枢機卿であるロドリーゴに呼び出され、サン・ジミニャーノへと馬を駆る・・・サン・ジミニャーノには、このシエナの次に訪れます。下は、シエナのドゥオモ、大聖堂とその中

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ホテルから谷一つ隔てて、見たシエナの町


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