« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月29日 (金)

新しいカメラ

 しばらくご無沙汰していました。体調が悪かったのもありましたが一番の大元はカメラ。年代物の愛用のカメラがついに老衰でくたばりました。やっぱり・・・しかたがないから新しいカメラ・・・でも、縄文時代の生き残りみたいなメカオンチのももりには・・・・気の重いことでしたが、上手くアップできた・あ・あ・・・!!!


Bonti


 このところ読んでいたのは、山崎豊子。新しい本「運命の人」に取りか掛かる前に、まだ読んでいないなん冊かを図書館で借りて一気読みしました。一気に読ませる超ド迫力!!!でした

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年3月21日 (木)

ズーッと前にアップした・・・108億円

 ももり自身が書いた記事・・・既に108億円ですって。
ま・あ・あ・・・金額が大きすぎてももりには感覚がわからず・・・お許しを・・・


2006年5月5日の朝刊「ピカソの恋人108億円「ドラ・マールと猫」

 NYのサザビーズで競売にかけられ108億円で落札。今まで個人が持っていたんだそうです。ドラ・マールと言えば、オルガ・コクロヴァと結婚中。マリー・テレーズと恋愛中。ドラは女性写真家で、気まぐれで刺激的な女性でしたがふさぎこむことも多く、ピカソは知的好奇心を刺激されての恋愛だったようです。有名な「泣く女」のモデルです。ピカソは実に、女性によって作風が代わった絵描きで、20才~25歳の極貧の生活時代は、青の時代。女には不自由しなかったようですが、25才でフェルナンド・オリヴィエと恋愛。途端にバラ色の時代に入ります。彼女はバレリーナ。うまくやりながら、一方で、26才の時、マルセル・アンヴェールと恋愛。彼女は通称エヴァ。この時代の代表作が、「アヴィニヨンの娘たち」キュビスムの時代に入ります。モデルの女性たちは娼婦だそうです。可愛そうにエヴァは結核で死んでしまいます。37歳で、オルガ・コクロヴァと結婚。数え切れない女性がモデルになります。つ・ま・り・・・
 ここに、不倫のお相手として登場したのが、今回、108億円のモデルとなったドラ・マール。今回の史上2番目の高嶺の花の絵のモデルは、写真で見ると、生き生きと綺麗です。まあ、目が、耳の横にあって、ホンモノが現れたら、卒倒するけど・・・この頃、故国スペインは内戦です。フランコ将軍の要請で、ヒットラーがスペインのゲルニカ村を攻撃したとのニュースに怒ったピカソは、「ゲルニカ」を製作しました。友人の絵描きたちが、戦場へ兵士となって出征する中、ピカソは不戦の立場をとりましたが、やっぱりいづらかったのが、この絵を描かせたと、ももりは思います。特に親友のブラックが愛国心にかられてパリから去ったことがこたえたようです。戦争は終わり、62歳で、21才のフランソワーズ・ジローと恋愛・・・息子クロードと娘パロマを得たのに、72才で、ジャックリーヌ・ロックと恋愛、80才になって、彼女と結婚。91才で死ぬ頃は、全くエロな、絵を残しています。
 さああ、ピカソがどんなヤツだったかわかっていただけたでしょうか。絵は冬のパリ。ピカソは19歳でパリに出てずーっとパリに住みました。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2013年3月20日 (水)

「ピカソ偽りの伝説」アリアーナ・ハフィントン

Matexisu

 大きな2冊、なかなか読むのはホネでしたが、読み終わっても何時までも手の中で転がしていたいような本です。

絵は美しいものや高尚なものだけを描くというべきものでもない。醜く、苦々しい心根も描いて当然です。特にピカソの生きた19世紀、従来の価値観が崩され、全てを疑う時代でした。キュビズム、ダダイズム、シュールレアリズム・・・はては・・・20世紀のコンテンポラリーへと徹底的に破壊された古典絵画の群れ。その先駆けの役割を敢然と果たした大きな大きな怪物・・・それがピカソなのでしょう。


 Hurann


Pika


 

 さ・あ・あ・・・長いこと、一度はピカソのことを書いてみたいと思っていましたが、やっと・・・お・わ・り・・・ ピカソの絵はもう見たくもないけど、ピカソが住んだお城や別荘なら見てゆっくり歩きたいなあ。
 あ・あ・あ・・・又、フランスへ・・・スペインへ、行きたくなってしまったじゃないの

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年3月19日 (火)

パリ・・洗濯船の青春

 ピカソ自身も語った「自分の黄金期だった」と云うモンマルトルのボロアパート洗濯船、バトウ・ラボワール。・・・実際に女達はそこで洗濯をしていた・・・洗濯女というのは、まあ・・・技術もいらず体力だけの酷い職場で、最低の職業でもあったらしい・・・足をももまで見せて洗うのはいささか男心をそそるものであったようで、シャンソンにもありますよね。洗濯船は、ピカソの死の2年前に焼失しました。


 
 ピカソはアトリエで2匹の犬を飼っていた。一匹は小さなフォックステリアのガット。もう一匹は雑種のフリッカ。他にもハツカネズミを引き出しで飼っていたので、悪臭があたちこめていた・・・といいます。餓死寸前ではあっても、洗濯船では彼は常に中心人物であり、彼の部屋へ寄ってきた若き芸術家達は彼の才能を認め、貧しい中でも面倒をみたといいます

 下、ブラック。彼は一番ピカソと近かったでしょうか。180センチの長身でハンサム。ボクシングに強く、ダンスが上手く音楽家でもあったといいます。キュビズムを二人で推進しましたが、老年のピカソの傲慢にあいそをつかして離れていきました。

Matexisu_007

 下、マリー・ローランサン。詩人アポリネールと彼女を取り持ったのはピカソなんですって。何しろ、当時、モデルと絵描き、道徳観てものはあまり無いみたいです。ま・あ・あ・・・・まともな淑女はヌードモデルにはならなかったでしょうから。


 Matexisu_009

下、マティス。マティスとピカソは激しいライバル同士でしたが、マティスは常に紳士で、清澄な精神の高みを求めたということですから、ピカソとは、相当ちがうよねえ。

Matexisu_013


ピカソ青春・・・若き芸術家軍団・・には詩人や音楽家も・・・アポリネール、ジャン・コクトー、エリック・サティー・・・ちょっと絵は載せられないけど。アポリネール、ジャン・コクトー・・・彼の酷い裏切りにあっても、結局彼にはひざまずき続けたのかねえ??

 
 アンリ・ルッソーは税関吏。60才半ばで、セーヌ左岸の小さな部屋で絵を描いていた。アポリネールに紹介されて、ピカソたちは「洗濯船」で盛大な晩餐会を開いたといいます。


Matexisu_004

 下、フェルナン・レジェ・・・ピカソは戦地には行かなかったけれど、レジェは愛国心にもえて入隊。戦地で傷つきました

Matexisu_008


 1905年、ピカソは大金をものにします。画商が2000フランも彼の絵を買った。2、3年の生活費には充分・・・彼は洗濯船を出て、大きなアパートに入ります。以後、金で不自由することはありませんでした。
 エコール・ド・パリと呼ばれ駘蕩としたパリ華やかなりし頃の芸術・・・いいですよねえ。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年3月18日 (月)

くさるほどの財産の行方

 1973年、ピカソ、91才は死にました。ピカソの周辺にいた画商や友人たちはピカソには未発表に絵がまだまだあるはずだと言っていましたが、残されたものは・・・3つの城館、2つの別荘、その他の土地や住い、銀行預金に4万点にものぼる作品群・・・1885点の油彩、1228点の彫刻、1万8095点の銅版画、6112点のリトグラフ、7089点のデッサン、スケッチブックが149冊・・・フランス国家はいかにして相続税を取り立てるか???

 遺書も遺言もなく、3人の私生児、孫が3人います。おまけに婚外子の子供の権利についてフランスの法律は混乱の最中でした。ピカソの死後9ヶ月にして、婚外子にも遺産相続の権利が認められました。しかし、22才までに、親子関係を証明しておくことが必要・・・といいます。フランソワーズの子供達は相続権をかち取りましたが、マリー・テレーズの娘マヤは、生涯片親でした。
 1974年、クロード、パロマ、マヤに相続権が認められました。一方、正妻オルガの子、ポールは麻薬とアルコールにまみれて1975年に54才で死に、残された二人の孫、24歳のマリーナと16才のベルナールが父親に代わって遺産をもらいました。
 それにしても・・・これまで散々命を吸い取った女性達に、せめてターップリお手当てを上げてたら・・・
 


 遺産は、勿論、最後の妻ジャックリーヌが一番沢山もらいました。でも・・・彼女はピカソの死後13年で、拳銃自殺。まあ・・・彼女には連れ子、カトリーヌがいたんやし遺産は???ま・あ・あ・・ももりがそこまで心配することないっか??? 


Moroko074


  先日、ももりが訪れたマラガのピカソ美術館は最後の妻ジャックリーヌの遺族が作品を寄贈して出来た美術館です。スケッチはマラガ落日

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年3月16日 (土)

ビル・ゲイツはマリー・テレーズに惚れたか

 1997年、NY、クリスティーズのオークションで、55億円。史上最高の価格でピカソの「夢」を買い取ったのはビルゲイツ。男はやっぱりピカソが好きなんやねえ。絶対的な支配欲・・・破壊欲・・・男達は、支配や破壊や陵辱や軽蔑、人を見下す・・・が・・・大好きなんやろなあ???なにしろ、ピカソはそれらの権化やったんやから。下は、ビル・ゲーツが買った「夢」モデルはマリー・テレーズ

Picaso_028_2

1977年、ピカソの死後4年。マリー・テレーズはガレージで首をつりました。ピカソの生前もずーっとわずかな送金で生活していた彼女には、送金が途絶えた時がありました。ジャックリーヌの悪意です。

 生活に困ったマリー・テレーズは自分の持っているピカソの作品を売ろうと考え、サインをしてもらうべく画商を通じてピカソの元に持ち込みました。「アア、いいとも。署名をしておこう。ここに置いて行きなさい」
しかし、これは大変な失敗でした。作品は戻ってこず、送金もないのです。弁護士を立てて、数ヶ月、やっと送金が開始されました。すこし、増額して・・・ピカソがその時、マリーに、これ等の作品を売らせまいと送金を開始。その時書いた書類が、後、作品がマリーのものであるという法的根拠になりました。

 そんな目にあわされたのに・・・マリー・テレーズが死んだのは、ピカソと会って、50年目、67才でした。ピカソの死後4年です。娘、マヤは「母を死に追いやったのは、父の死だけではないのです。それ以上のずっと大きな何かです。母は、父が、あの世で一人ぼっちでいるのに耐えられなかった」・・・最後まで、ピカソの愛を信じたマリー・・・・最後まで「結婚するならお前」なあんて言ってたピカソ・・・あ・あ・あ・・・なんとかわいらしくいじらしく哀しい!!マリーの純情。ピカソ・・・憎し!!!
 


 ビルゲイツはそんな事を知って、マリー・テレーズの「夢」を買ったんやろか


 何冊かの本を読んでこの記事を書きましたが、本によっては多少の齟齬もあり、又、絵のスタイルはきれいに分けられるものでもないことを言い訳にしておきましょう。ピカソの絵の価値は長い歴史の前に、変わっていくか???
 便所の落書きでも、ピカソ様が描いたとなれば、芸術か???

 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2013年3月15日 (金)

囚われ人 ピカソ・・・とジャックリーヌ

Picaso_003


 最後の自画像です。目は宙を泳ぎ、シワシワで・・・これはピカソの最高傑作でしょうね。 


ピカソ80才。1961年、老いたピカソは35才のジャックリーヌと正式に結婚しました。知りあったのは7年前。2度目の結婚です。ピカソは数知れずの女性を泣かせましたが、最初の結婚の相手が、ロシア人バレリーナ、オルガ・コクロヴァでした。オルガは精神を病み、とっくに結婚生活は破綻しているにかかわらず、長年、財産への執着もあり離婚が出来ませんでした。その間、不倫なんてものじゃない状態で何人もの女性が苦しみましたが、結局、1955年、オルガが、やっと死んでくれたので、1961年、晴れてジャックリーヌは入籍されたのです。フランソワーズが手酷くピカソに仕返しされたことは以前に書きました。

Picaso_026


 ジャックリーヌはピカソの陶芸を展示していた展示館のスタッフでした。結婚の経験もあり6才の子供もいたジャックリーヌでしたが、自分からピカソに近づいたのです。当時、事実上の第一夫人、フランソワーズがいるにもかかわらず。老いたピカソがジャックリーヌと結婚したのはフランソワーズへの仕返しだったのですが・・・結婚して老いぼれた王のいる城の女あるじとなったジャックリーヌはピカソの身内を全て遠ざけました。ピカソはジャックリーヌを「ママン」と呼んでいたんですって。気まぐれで、時折入れてもらえるのはゴマスリスリ・・・そのゴマスリたちも二人のかんしゃくにはたまらず、早々と退散したそうです。


Picaso_024


  ジャックリーヌは徹底的にピカソを管理しました。結婚してから91才の死まで11年間。老いたピカソと、錐のように鋭いピカソを監視するジャックリーヌの視線、世間を憎むような同居生活でした。ピカソは・・・きっと、もう自分の絵に自信がなかったし、きっと自分の絵を憎んでたんやねえ・・・と、ももりは思います。滅多に門が開くことはなく、たとえ、ピカソが病気と聞いて、子供達がやってきてすら、開きませんでした。おまけに他人には吝嗇・・・

 ピカソが、死んだ時すら、かつての恋人達、友人達は勿論、孫すら近づけませんでした。埋葬の為の移動もマスコミも避けて、遺体は雪山の難路を行ったといいますから、相当な独占欲???というより、所有欲???物欲のような気がします


  しかし・・・1986年、深夜、ジャックリーヌは、ベッドに横たわり、シーツを首まで引揚げて、こめかみを拳銃で撃ち抜きました。マリーテレーズが首をつって9年後になります。あ・あ・あ・・・・あんな男の何処が良い!!!口惜しいじゃありませんか。ドラは医者が治療として行なった能へのショック療法で狂いました。美しい絵を描いていたと言いますのに。フェルナンド・オリヴィエは極貧にあえいで、病のとこにあり、エヴァは結核でとっくに死に・・・ピカソのポケットには金がうなっていたと云うのにねえ。

 


 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年3月14日 (木)

まだまだ続いたピカソとの戦い フランソワーズ

 Picaso_014


 上はピカソが描いたフランソワーズですって。グチャグチャに崩れてしまう今までの女達。その官能の部分を拒絶できた女性、フランソワーズは、ピカソにとってはこんなイメージだったのでしょうか。


 1953年、フランソワーズは、ピカソの下を離れてパリへ。たまたま出会った古い友人リュック・シモン・・・2つ年上の彼女は、まるで老女のようだった・・・リュックは間もなくフランソワーズの元へ引越します。6才と4才のフランソワーズの子供達の、よき父親となったのです。それを知ってピカソは激怒します。執拗な戦いが続きます。 


 フランソワーズが新婚旅行でヴェネツィアに行っている間、メイドがピカソの下へ子供達を預けました。ある日、マヤ・・・マリー・テレーズの娘・・・から電話があり、「パロマが重い虫垂炎にかかっている。できるだけ早く手術を」といいます。その日のうちにニースに帰ったフランソワーズは、以前の住まいから、自分の持ち物全てが消え去っているのを見ます。前日にジャックリーヌがやってきて、絵やデッサン、手紙、書籍、身の回りの物を洗いざらい持ち去ったというのです。フランソワーズの怒りの電話に答えてピカソは言いました。「私と一緒にいるかぎり、全て君のものだった。だが、私を捨てて出て行った君には何も残っていないんだ!!!」娘の命が危ういというのに・・・「警察を呼ぶ」とフランソワーズは脅します。間もなく、ポール・・・オルガの息子、麻薬と酒に侵されている・・・がマヤを連れてきて、カンヌの病院へ運びました。下はピカソの妻の座を狙っていたジャックリーヌ


Picaso_016


 話は前後しますが、ピカソは戦後、長く共産党に入っていました。共産主義が強かった時代、ピカソは党からもてはやされ、政治的な会議などに出席して看板としてもてはやされていました。しかし、スターリンが死んで、その肖像画を描いた時、轟々たる非難が沸き起こり、共産党がピカソの味方かどうかは怪しくなってきました。同志スターリンの有り難さなんてカケラも表現してないっていうところでしょうか。どっちもどっちやけど・・・

フランソワーズが出て行って、かねてピカソの女の座を狙っていたジャックリーヌがピカソの横に侍りました。このときは正妻のオルガは死んでいて、ピカソは天下の独身男だったのです。しかし、フランソワーズは、一気にピカソから解放されたのではありません。養育費の支払いはなく、フランソワーズは自身の画家としての仕事と、実家の援助で子供達を育てています。ピカソとの間の二人の子供の認知が大きな課題になったのです。当時の法律は、正式に結婚していない母親や私生児には、財産の相続権もなかったのですから。子供達の将来を考えてフランソワーズはピカソに認知を求めます。 


 ピカソの卑劣な嫌がらせは続きます。フランソワーズの夫、リュックも絵描きでしたが二人共、画商達から手を引くと宣言されました。ピカソの怒りが怖かったからです。一方、40年も放っておいたマリーテレーズには結婚しようと電話をかけます。それを聞いていた娘、マヤはピカソの家を出ました。そしてもう二度と戻らなかった。
 ピカソの家族、不肖の酔いどれ麻薬息子ポール、フランソワーズの生んだ子供達も時々集まってきていたようですが、一番ひょうきんで明るくオチャメで、世話好きなマヤが家を出て、一家は、腹にイチモツの陰険な大人ばかりになり、裸の王様にさからう者は誰もいませんでした。下は幼き日のマヤ。ぷっくりとと太った健康な女の子だったようです。


Picaso_010

子供達の認知の件ですが、弁護士を通じて、何度ピカソに求めても、ピカソは出て行ったフランソワーズに我慢がならず、ウンといいません。ところが、ある日、ピカソから、直接提案がありました。もう一度、ピカソと正式に結婚すれば、すぐにも、この問題は解決するというのです。考えに考えたフランソワーズは、子供のためにピカソとの結婚をOKしました。1961年1月、フランソワーズとピカソの間の二人の子、クロードとパロマが父親の名前であるルイス・ピカソを名のる事を認められ、2月、フランソワーズは夫、リュックに離婚を申し入れます。
 一方、3月2日、ピカソは極秘のうちに、ジャックリーヌ・ロックと市役所で結婚しました。このニュースが新聞紙面を飾ったのは、ジャックリーヌがピカソ夫人となって12日後でした。フランソワーズのほうは結婚の準備を整えていたのに。


 「私は新聞記者にかぎつけられずに結婚しようと堅く決めていた。そして、やったのだ!!!私の勝ちだ!!!ピカソは新聞紙上でこう叫んだといいます。ピカソの卑怯、ここに極まれり!!!


 しかし・・・ピカソはこの瞬間から、ジャックリーヌ・ロックの囮となってしまったのでした。


 ピカソの家の玄関先には電流が流され、何匹かのアフガン犬が番犬として飼われていた。そして、最後には鉄条網まで・・・面会者は厳密に制限され、裸の王様は、ひたすら、死の恐怖と戦いながら、古典絵画の模写??・・・彼流の模写・・・をやったり、だだをこねたり・・・ジャックリーヌも又、消耗していきます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年3月13日 (水)

京都水彩展  昨日から

Kyousu_008

 昨日から、京都市美術館にて「京都水彩展」が始まっています。ナンヤカヤと準備があり、アップするのが遅れました。お仲間の力作がならんでいます。勿論、ももりも出品。でもねえ・・・最近、見せたくないのよねえ。それでも・・・とおっしゃって下さいますなら会場へ!!!クシュン


Kyousu_007

 昨日、たまたま会場のお当番でして、その時、京都新聞の取材があり、お友達の作品の前で、鑑賞しているももりが、今朝の京都新聞に・・・は・は・は・・・おまけやねえ。


Kyousu_002


 お仲間の作品「藁づか」です。真正面から取り組んだ作品で、一般公募のトップの賞を授賞しました。


Kyousu_004

 上はお仲間の作品。どうですか!!!楽しい!!子供達や応援団の応援の声が聞こえてきそうです。先日来のピカソの、あの重っ苦しさから、しばし、解放されてください。
 でも、この際、ピカソはまだ少し続けますゾーーーーー


 「京都水彩」につきましてはHPを、検索でご覧ください

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2013年3月11日 (月)

ピカソを捨てた女・・・フランソワーズ

Pika_001

 たった一人、決然と、自ら子供とともにピカソのもとを去った女性、フランソワーズ・ジロー。ピカソを愛してしまっては身の破滅と知りながらも、ピカソに翻弄され、苦しみ、しかし、自らの誇りだけを杖に、決然とピカソを捨てました。彼女も絵描きです。絵を描いて初めて見えてくるものってあるに違いありません。ある日、衰えた見苦しいセックス狂いの老人を眼前にみたのです。正体見たり枯れ尾花!!!上の本、タイトルは全く気にいらないけど、ピカソとフランソワーズです。この写真は有名ですよねえ。

 フランスの貴族の家に生まれたフランソワーズは、幼い頃から非常に優秀で、法律家を目指していましたが、時は、戦中、レジスタンスに参加しています。法律そのものが機能しない現実の中、絵で身を立てようと決心しました。21才、男の子のような清新な女性だったといいます。フランソワーズと親友が食事をしていたすぐ後ろの席でドラと食事をしていたピカソ、61才は、さくらんぼを盛ったグラスを持ってフランソワーズに近づきました。

 ピカソと暮らす事は、オルガやドラ、マリー・テレーズとの確執を意味します。女同士を争わせて傷つけ合わせてそれを楽しむというピカソの卑怯でサディスティックな性格を見抜いた彼女は、なかなかウンとはいいませんでした。しかし、なんといっても若かった。

 ピカソと暮らし始めたフランソワーズはお金も与えられず、ピカソのために2軒の家のストーブに火をつけに出かけるというような奴隷の生活に耐えて、必死につくします。マリー・テレーズや、ドラの息子ポール・・・ポールは既にアルコールと麻薬に溺れ、警察沙汰にもなっていました・・・に、お金を送ったりするのも彼女の仕事でした。

 ピカソとの間に二人の子供をなし、特に娘の出産後、非常に消耗しているのにかかわらず、ピカソは「ボロボロのまるで箒のような」とか言います。が、しかし、いじめるのが目的のピカソは彼女を離しません。そんな時、フランソワーズの母親が死にました。ピカソとの結婚に反対して、縁が切れていた父親との再会。彼女は、事の次第をはっきりと見極める・・・霧が晴れたように・・・・呪いがとけたのです。

 ある日「歴史的記念物と暮らすのは草臥れた」と言い捨てて、子供と共に家を出て自立。間もなく再婚。新しい夫も絵描きで、執拗なピカソの嫌がらせに二人で耐えて、新たに女の子も生みました。絵描きとしてもアメリカで成功し、子供達もしっかり育て上げます。やっぱり自分をなくさない・・とうか、理性がしっかりしてるというか、自立してるというか・・・しっかりしてたのよねえ。しかし、この言葉は、口に出したことはないと彼女は言っています。72才、ピカソは初めて女に捨てられました。いい気味!!!

Picaso_023

Picaso_019


| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年3月 8日 (金)

ゲルニカの描かれた頃

 1936年、マリー・テレーズが出産したすぐ後、ピカソは、サンジェルマン・デ・プレのカフェで、魅力的な娘と会いました。ドラ・マールです。ドラについては前回、書きました。


 1933年、ヒットラーが政権を握る。イギリス、フランスは見事にだまされました。「ヒットラーには英国やフランスと戦う気は無い」と思わせておいて、1938年9月、ポーランドへ電撃侵入。2週間かからずポーランドは陥ち、フランスへなだみました。第2次世界大戦です。

 1936年といえばスペインでは内乱。フランコがモロッコで挙兵してスペインへ帰ってきたのです。


  
 家庭では、オルガは半狂乱で彼を攻め立て、マリーは母となり、従順すぎて、ピカソは満たされません。21年前の恋人、フェルナンドは、若き頃のピカソとの洗濯舟での生活を活字にしました。世間的には王侯貴族の暮らしです。しかし、彼の家庭には安逸はありません。


 コーヒーを浴びるように飲んで、雨のように小便を漏らして歩くノミに対しては・・・・・・ひ・ど・い!!!ピカソの詩の一行です。


  1937年、フランコ総統の要請を受けたヒットラーはスペインの小さな村、ゲルニカを爆撃。海外から反ファッショの旗を掲げて文化人たちが集まっていたからという理由の元、一般人の被害 は1700人といいます。ピカソは怒りました。生涯を通じて彼が社会に対して発言するのはこの一時期のみです。


フランコの率いる軍隊が、マドリードへ数十キロまで迫っていました。プラド美術館の芸術作品を守らなければならない。スペイン政府は、彼にプラド美術館の館長になることを要請。彼は引き受けました。と言って、具体的に何かをしたわけではありませんが、故国のために、天才芸術家ピカソが、反ファシズムに立ち上がったということは、世間に大きくアッピールする出来事でした。


 彼はスペイン政府から、パリ万博のスペイン館のための作品を描くように要請されていましたが、なかなか筆が進みません。4月、ゲルニカ攻撃。ピカソの題材は一気に決まりました。
 349センチ×776・6センチの大画面には、怒りに任せて筆をふるい、45点のエチュードの売り上げが共和国政府に貢献しました。
 たった一度、祖国の為にあげた雄叫び。このゲルニカの実物を見ていないという日本人は、案外少ないようです。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年3月 7日 (木)

キャピキャピの女流芸術家から・・・・神経を病むドラ・マール

Picaso_012


Picaso_013


 どうですか・・・ハンカチをしり締めて泣く若い女。ヒステリックなわめき声が聞こえるようです。それにしても・・・・のうのうとこの顔をキャンバスに再現する・・・サディスティックです。

 ドラ・マールは、新進のシュールレアリストであり、カメラマンでもありました。若く才能あふれたキャピキャピ、ドラを恋人にしたピカソには、その時、正妻オルガ、恋人マリー・テレーズと同時進行です。


 ドラの特技は指を広げて、テーブルの上に置き、ナイフを指の間に順番に突きたてる・・・当然、手袋は血まみれ・・・その手袋をピカソは乞いうけて持ち帰ったといいます。


 丁度、「ゲルニカ」の製作の真っ最中。この作品に取り組むピカソの前で、ドラとマリーは取っ組み合いのけんかをした・・・ピカソは喜んで見ていたと言います。ドラも・・・・精神を病みました。ヒ・ド・イ!!!

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年3月 5日 (火)

無垢 の少女,マリー・テレーズ・ヴァルテル17才・・・と野獣ミノタウロス、ピカソ

Picaso_011

 身を刺すような冷たい冬のパリの午後、「ラ・ファイエット」百貨店の近くでした。地下鉄からでてきたテニスのラケットを抱えた少女、17才。ピカソ45才です。
「私はピカソです。君の顔はとても興味深い。モデルになってくれないか」と声をかけた。ナンパしたのです。少女はピカソを知らなかった。この、有名人を・・ネ

 マリー・テレーズ・ヴァルテルはスポーツは大好きだが、芸術には全く関心が無い完璧に健康な少女でした。母親と二人暮らしで、2日後、サン・ラザール駅で待ち合わせ、映画に行った。


Picaso_028

 フランスの法律では18才未満の女子に、イカガワシイ???事をやったら罪になるそうで、18才をまってGo!!
 ピカソはまるで無垢は少女であったマリー・テレーズを思いっきり蹂躙します。ここで、ピカソは野獣になりました。そして、「乙女を陵辱するミノタウルス」の傑作群が残されたのです。

Picaso_022


 マリー・テレーズは一人娘、マヤを生みます。母親となったマリーから、ピカソの興味は急速にうすれ、次のお相手はキャピキャピ、新進芸術家、カメラマンにして、シュールレアリストのドラ・マールに移ります

 可愛そうに、マリーはピカソの死後4年目にして自殺しました。あれほど酷く、同時に激しく、暴力的に・・・「何も知らなかったわたしは、いろんな要求を聞いて笑い出した」と、後日語ったという性生活が生々しく画面に再現されます。


 
 伝記作家が娘、マヤを尋ねた時、双子の自分の子供をさして、「この子たちが私のピカソです」と言ったのを聞いて初めてホッと救われた気がした、と、書いています。ホント、安らかなピカソの子孫はこの子達だけ・・・では、ない、もう一人ピカソを逃れた賢明な女性がいます。しかし、女達の不幸を書くのはつらい。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年3月 4日 (月)

ピカソ最初の妻 オルガ・コクロヴァ   

Picaso

オルガ・コクロヴァ。ピカソがロシアバレー団と一緒に、舞台や衣装に携わった時期、ディアギレフバレー団のダンサーでした。特に優秀な踊り手ではなかったといいます。ロシア貴族の血をつぐオルガには、計算高いしっかり者の母親がついていて、結婚するハメになりました。しっかりした母親は「わかれるということになったら財産は半分はオルガのものにする」と云う一文をゲットしたのです。ピカソ、痛恨の???37才

Picaso_020

 実際、ピカソには生前から「もっともっと一杯絵はあるはずだ。誰にも見せていない絵が一杯ある」と周囲は言っていましたが、描いても描いても、オルガを潤すだけだ、と思ったピカソは実に膨大な隠し財産を残して死にました。フランス政府はそのうちの優品を、相続税の代わりの物納として取りあげ、現在、パリにある「ピカソ美術館」ができたのです。フランス政府もしっかりしてるよなあ!!!


 さて、オルガ・・・男の子、パウロを生んで、貴族的に育てるべく家庭教師も付け、家には豪華な椅子も沢山備えてお客やパティーも出来る様にして、服装も生活も貴族趣味をピカソに求めました。いまや、ピカソはお金にはまるで困らない男だったのですから。ピカソはパウロを本当に可愛いがり、肖像画をいっぱい残しています。オルガは「絵は高価な壁の飾り物」位の意識しかなく、「私を描くなら、私とわかるようにキチンと描いてください」と、言っていたといいます。


 
 ピカソが91才で死ぬ時には、この子、パウロは酒と麻薬に溺れて病床にいました。悲劇的なことに、そのパウロの息子、ピカソの孫、パブロ・・・その名もピカソの名前をもらった孫・・・は枕元の消毒剤を一瓶丸飲みし、その結果、3か月後に死にました。オルガは、77才で死ぬまで離婚をガンとして受け入れず、37年間の恨みだけの残りの人生・・・精神分裂病のうちに死にました。それも、これも、不幸!!!


Picaso_009


 ヒステリックなオルガを離れた時、ピカソはもう、別のアトリエに若い恋人を入れていました。マリー・テレ-ズ、17才です。このマりーも哀れ・・・・マリーこそはかわいそすぎます。無垢な健康的な乙女は、徹底的に中年男ピカソに蹂躙され、あげくの別れ。マリーは、ピカソの死から4年後に自殺しました。マリーについては次回

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年3月 3日 (日)

ピカソ29才 やさしいエヴァ

 エヴァとはピカソが愛を込めて読んだ名前。アダムとイヴの「エヴァ」で全ての女性の始めと言う意味があります。本名は、マルセル・アンペール。フェルナンドと違い、エヴァは彼のアパートをこざっぱりと片付けるタイプでした。病気がちでもあり、二人で部屋の中で楽しむことが多かったようです。
 しかしエヴァは、結核で死にました。1915年12月14日、知り合って5年です。


 エヴァの写真やスケッチの良いのがアップできません。ピカソはこの頃キュビズムに夢中で、解体したヴァイオリンに「エヴァ、永遠の愛」とか書き込んでいます。
 そうでなくても蔭のうすいエヴァは、ピカソとバルセロナへ帰ったり・・・まああ、精力的なピカソに精力を吸い取られたように結核で死んでしまいます。毎日のようにエヴァを見舞いに行きながら、もう、ピカソには新しい女性が出来ていました。その女性は・・・まあ・・・数には入れないことにします。

 1914年といえば、第一次世界大戦が始まった年です。ブラックやドランも招集され、アポリネールやレジエも追って戦地に向かった。パリは閑散としています。戦地に行かないうさんくさい若者ピカソ・・・ピカソはスペイン人だから・・・・周囲の目も突き刺さります。ドイツ人の友人達、金ズルの画商も・・・・も、フランスから去ります。最も寡作な2年間でした

 そんな中、詩人、ジャン・コクトーを通じてロシアバレーの世界に入り込みます。そこで出会ったのが、最初の妻となるオルガ・コクロヴァ・・・彼女も又、不幸です。精神を病んで死にます。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2013年3月 2日 (土)

ピカソ22才・・・そしてバラ色の時代

Picaso_018


Picaso_004

 1905年のパリの夏。八月。激しい夕立。洗濯舟と呼ばれる安アパートの入口へ、びしょぬれになって駆け込んフェルナンド。子猫を抱いた同じくびしょぬれの青年が立ち塞がりました。その青年こそはピカソ。フェルナンドはピカソより早く洗濯舟に暮らしていましたから、ピカソはかねてから目をつけていたのでしょう。そのまま、子猫を抱かせて、部屋へ・・・成立です。 

フェルナンドはパリ生まれの私生児、ユダヤ人。ピカソとおない年ですが、17才で子供を流産、その後、結婚もしましたが破綻。人生にもはや疲れています。不幸な娘でしたが頭もよく、スラリと美人でピカソより背が高かった。 


 ピカソは、まだ貧しく、外で遊ぶ金もない。室内でフェルナンドを何枚も何枚も描きました。ピカソの描くフェルナンドの裸体は穏やかで、うるわしく、暖かく、ふくよかです。フェルナンドは、そんなピカソを鷹揚に受け入れていました。青の時代は彼女によって終わり、バラ色の時代に入ったのです。
 しかし、画商が付いて金を握ったピカソは、洗濯舟を出て、グランドピアノとマホガニー製の家具が置かれた大きなアパートへ引っこします。この頃からピカソの目はあやしくなりはじめます。

 1910年頃には、二人の関係は惰性から、冷えの時に入っています。ピカソには新しい恋人が出来ていました。エヴァです。この人も不幸なのよねえ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2013年3月 1日 (金)

ピカソ 幼き日のこと 

 ピカソ・・・少し急ぎすぎました。
両親の愛情が不足だったのでは???と云う意味の書き込みもいただいて、やっぱり、ピカソの幼い日々のことにも触れなくてはと思います。


 ピカソを貶めようとは、ゆめ思いませんが、しかし、ピカソを愛した女達の不幸・・・あまりにも際立つ女達の酷い末路はどうしたことなのでしょう。
 正妻オルガは精神分裂病。息子パウロはアルコールと麻薬に溺れ、その枕元では孫が、絶望のあまり父親の枕もとの消毒薬を1瓶丸飲みして3ヶ月後には死。やさしいエヴァは結核。蹂躙されつくしたマリー・テレーズはピカソの死の4年後に自殺。あのキャピキャピだったドラ・マールも神経衰弱。はては・・・最後の妻ジャックリーヌも自殺・・・・
 この男の何が彼女達の命を吸い取ったか???何がピカソをそうさせたか???
 

Pica_003


ピカソの父、ホセ・ルイス、42才。母、マリア・ピカソ、25才は1880年に結婚。1ヶ月もたたないうちに身ごもった。やがて出産。死産・・・かと思われた。産婆は赤子をあきらめて母親の世話に移ったが、評判の医者であった叔父、(父の弟)がすっていた葉巻の煙を、赤子の鼻の穴に吹き込んだら反応した・・・という。

 パブリート(パブロの愛称・・パブロちゃん)はつぶらな大きな目の、実に可愛らしい子で、メイドも含めて時間をもてあます5人の叔母や母親からは甘やかされ、欲しいものは何でも与えられ、いいたい放題、わがまま放題、愛情過多???かもしれない。


 パブリートは、言葉を覚えるより前に絵を描くことを覚え、チューロー(スペインの丸く円を描きながら、油で揚げる菓子パン)を要求し、「ピス、ピス」といって鉛筆を欲しがったし、切り紙細工も実にたくみだった。


 ピカソが生まれる4年前、ピカソ家は一家を支えていた実力者の兄を失った。兄、パブロ・ルイスは聖職者、神学博士、マラガ大聖堂の参事会員だったが、その叔父が46才で急死して、一家の経営は、現実的能力にはハナハダ心もとないピカソの父ホセの肩にかかってしまったのだった。父は、マラガの私立美術館に職を得る。しかし、1890年には失業。美術館が閉館されることになったから。次に見つかった仕事は、スペインの北西端、ラ・コルーヤの美術学校の教師の椅子だった。

 ラ・コルーニャにて、ピカソにとって学校はつらい処だった。落ち着きがなく、好きな時に席を離れ、本にはびっしりと落書き。ひわいなロバの交尾まで描いている。おまけに、詩までそえている。


  はじめましてとも言わないで   雌のロバは尻尾を上げる
  しつれいしますとも言わないで  雄のロバは注射針を突き立てる


 どうですか・・・10才ですよお。パブリートは父を尊敬し、べったりだったが、父は、ラ・コルーニャの陰気な気候や言葉の違いなどから、塞ぎこんでしまうようになった

 12才。ピカソの初恋。お相手は貴族の娘、アンヘレス。クラスに二人しかいない女子の一人だったが・・・手紙の交換をしたりすることに不安を持った彼女の両親は、アンヘレスをパンプローナへ送り出してしまった。ピカソが貧しさや社会的地位の低さの意味をしっかりつかんだのはこの時からかもしれない。


 妹の死・・・ピカソは死をひどく怖れるになった。ピカソ14才。父はバルセロナへ出ます。
この時期、「死」をテーマにした作品が多く、とても死を怖れた。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »