« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月18日 (木)

フランス  4回の革命

Pari_005

 ルイ16世処刑後の革命政府は乱れに乱れ、1ヶ月半でギロチンが1300人を処理。もはや、革命の理想などはどこかに雨散霧消です。諸外国からも攻めたてられて、気息奄々のフランスに登場したナポレオン。ナポレオンについては以前大分書いていますので、省略しましょう。 


 ナポレオンの治世はなかなかのもので、フランスは国威を発揚し、大いに意気盛んだったのですが、1814年にはワーテルローで負けて没落。退位しました。
 そこへ、オメオメと亡命先から帰国して王位についたルイ16世の弟二人、ルイ18世とシャルル10世。シャルルは激しく革命派だった人々を逆襲して、貴族社会に戻そうとします。再び民衆が暴動を起こしたのが、7月革命。1830年のことです。上スケッチは100年間もイギリスと戦って、もうダメかという時にフランスを救った、300年以上も前のジャンヌ・ダルク、かの聖女が処刑されたルーアン

 シャルルはベルギーへ逃亡。その跡へ傍系のオルレアン家のルイ・フィリップが王様になりました。改革派を装っていた彼もやがて反動化。再び民衆が暴動を起こしたのが2月革命です。王様はイギリスへ逃亡。1848年

 
 そこから、又、革命政府がとりし切りましたが、全て上手くいかず、やがてナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンが選挙で大統領に選ばれ、やがて、クーデターにより王様に居座ります。ナポレオン三世です。1852年のこと

 どうですか・・・このナポレオン3世が、プロイセン・・・当時有名なビスマルク・・・との戦争にこっぴどく負けて、屈辱的な講和を呑み、パリを包囲する砲台を解体するとの報に憤慨した民衆は、4度目の暴動でパリを守ろうとしたのが、パリ・コミューンです。 


 フランスの国旗、赤、白、青の三色旗は赤と青の間にブルボン家の白をはさんだものだそうです。
面白いことに、第2次世界大戦後の1950年、再び王様に戻ってもらおうという話もあったのですが、ブルボン家の後裔、アンリ7世(1933年生まれ)が、この三色旗を国旗とすることを頑として拒否。王政復古はならなかったといいますから、歴史って面白い!!!。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2012年10月16日 (火)

フランス革命  内の風 外の風

Hurannsu_004


 おフランスへの旅が近づきました。ウ・レ・シ・イ・イイッ!!


 「フランス人は冷たい」とはよく聞くことですが・・・あんな革命を経験したら、誰だって自分以外の判断で行動することはなくなるのではないか・・・と推察します。 

Hurannsu_003

 フランスより140年早く、イギリスは、国王チャールズ2世を処刑して共和国となります。クロムウエル・・・聞いたことのある名前です。しかし・・・立憲君主制下の王位は新旧キリスト教を巡って対立、1685年、時の国王ジェームス2世はフランスに亡命。世に云う「名誉革命」、無血の革命がなりました。後、議会制民主主義が「権利章典」として確立。王位継承令も出され、イギリス王位は安定にむかったといいます。


 フランス革命、1789年といえばワシントンがアメリカ初代大統領になった年。
 一方、イギリスでは世界に先駆けて産業革命の嵐、フランスは遅れをとります。フランスにも自由に取引きをし、産業をおこしたい富裕層や知識層も力をつけてきています。しかし、頑固に旧体制の利権にしがみつく貴族や教会勢力は社会改革を実現させません。一方、革命的な狂乱状態のパリから離れた地方各地では、保守的な農民が、パリを逃れて領地へ帰った領主とともに大反乱。フランスは内乱状態です。そこに付け込んで外国が攻め寄せてくる・・・訓練されていない民衆の軍隊は負けてばかり・・・


 内外共に、旧体制ではどうにもならないという状態でした。イギリスの革命は、ジェントリとよばれる上層階級に拠りましたが、フランスの場合は、民衆の力を制御できなかった、いえ、むしろ、民衆の無制御な暴力を利用した、民衆をけしかけた党派が主導権を握ってしまった・・ルイ16処刑後、恐怖政治は1年あまり、ロベスピエールのジャコバン党の専制です。


 ジャコバン党も、結局、民衆の力で引きずり下ろされ、昨日の敵に処刑されます。


 しかし、「人間は自由なものとして生まれ、権利において平等・・・」「国民主権」・・・やっぱり、近代はフランス革命が切り開いた???フランス人が誇り高いのも、無理ないかあ!!!

 あ・あ・あ・・・・パリ・・・相棒がフランス嫌いでパリは初めて。だぁかぁらぁ・・・おのぼりさんコースも歩かなくっちゃねえ。エッフェル塔や凱旋門、コンコルド広場なんか・・・ま・あ・あ・・・・ええとするか???

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2012年10月10日 (水)

革命時の謎・・・女性たち

 フランス革命はバスチーユの襲撃で始まったことはよく知られています。男だったら兵隊も撃つかもしれないけど、女性なら・・・この暴動は実に緻密に計算されていたというのです。パリのおかみさんたちが「パンよこせ」とヴェルサイユまで雨の中を歩いたのは、多くの画家が描いています。しかし、この行進には女装した男達がたくさん混じっていた、というのです。黒幕は後、王位に返りざいたシャルル10世、弟のアルトワですって。でも・・・これはちょっとマ・ユ・ツ・バ???


 フランス革命は実に多くの本が書かれたようですが、この革命は、実は資料が多すぎて、いずれが真実か、いずれが政治的意図の為に書かれたかを見極めることが大切だとシュテファン・ツヴァイクも書いています。
  

Kakumei_004_2


 ナポレオンの死後戻ってきたルイ16世の二人の弟、ルイ・18世とシャルル10世は、当然、革命を貶める立場ですから、いろんな革命の記録は信用できません。例の「首飾り事件」でやきごての刑を公衆の面前で受けたブルボン王家のヴァロワ・ド・ラモット・・・は、イギリスへ逃亡して、それこそ、日本のゲスな大衆誌なみの酷いゴシップを捏造し、民衆は引っ張り合って読んだといいます。


 ももりだって、小説のひとつくらいはモノしたいと思うほど、想像力がウズウズするし、ドラマチックは虚実ないまぜの世界です

  
 実に多くの女性達がサロンを持ち、主義主張をはっきりし、やがて、主導権争いにやぶれ、あるいは同士討ちで断頭台へと消えました。ところが、革命政府は「女性は家庭へ帰れ」と女性の政治活動を禁止したのです。フランスは革命によって民衆の選挙権を獲得しましたが、女性の参政権は実に1904年まで無かったといいますから驚きます。


 ヴァロワ・ド・ラモットについては以前に書きました。ブロワで、グループ展に参加した時のお屋敷がラ・モットさんのお屋敷でしたから。
 ラ・モットさんのことは2009年8月23日~26日に書いています。ゼヒゼヒ・・・

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012年10月 3日 (水)

ルイ16世の弟たち

Kakumei_005

  ホントならぁ、パリくらい、一人でフラフラしたい!!!パリは、フランスのグループ展に参加した時や、えらいお坊様の荷物持ちで何日か滞在したこともあって、合わせたら???さ・あ・あ・・何日いたか???でも、そんな時はシャルトルやらルーアン、古城めぐりとかへ出かけたりして、案外、パリだけをゆっくり見ていないのです。


 ルイ16世。いわく、優柔不断、無能・・・錠前作りにしか興味が無かった。包茎であった・・・
これ等はみなウソではありません。しかし・・・彼が、即位した20才から、頭だけは啓蒙思想にあこがれた君主でした。長い封建時代の民衆搾取、貴族や僧侶は無税なのに、民衆には何重にも税がかけられている、といった搾取を改善すべく始めた政策がいくつもありましたが、しかし、既得権を手離さない貴族、自らの周辺の拒否に会い、なすことなく終わっていました。その後のアメリカ独立戦争への援助と敗北、経済の逼迫・・・王妃の贅沢なんかはたかが知れてる・・・
 ラペルーズを太平洋探検に出し、ハワイを発見したのも彼です。ハワイが「ルイ島」とか云う名に命名されなかったのは、彼のその気の良さゆえで他にそんな例はありません。


 結局、何一つ自分の意志を強行できなかったエエトコのボンボン。虫一匹殺せなかった???イヤイア・・・狩りは大好きだったから・・・

Kakumei_002


 
 ももりが嫌いなのは、この弟、ナポレオン失脚後におめおめと帰国して王座に還り付いたなんとも嫌なヤツ。マリー・アントワネットと遊び暮らしいたくせに革命時にはいち早くドロン。外国の王達をそそのかして、フランスの革命を潰そうとはかり、軍隊をうごかします。けっきょく、マリー・アントワネットの首を絞めることに直結したのがこの男。


 その彼の死後、王位に着いたのはシャルル10世。王位についてからは露骨な復讐政治をやりました。

Kakumei

 このシャルル10世の息子、どうしようもない出来損ない、アングレーム伯爵と結婚したのが、かの、マリー・アントワネットの娘。マリー・ルイーゼです。両親も叔母も処刑された跡、タンプル塔に一人残され、革命政府が彼女を思い出した時には、言葉もろくにしゃべれない16才の少女がいた・・・と、あります。
 長い外国を流浪して、彼女が帰国したとき「復讐のために帰ってきた」と人々はささやきあったといいます。一生、笑うことが無かったというこの娘については以前に書いています。彼女は徹底的に復讐を画策します。革命時の裁判所と同じことをやり、マタマタたくさんの血が流れました。結局、又、民衆は暴動を起こしたのが7月革命、1830年です。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2012年10月 2日 (火)

パリの予習

Kakumei_001


 フランス革命では、マリー・アントワネットとルイ16世は余りに有名すぎます。でも、さてさて・・・???
革命当時のパリの、いろんな事件の舞台は今、どうなってる???


 先ずは、バスチーユの牢獄・・・絵にはいくつか描かれていますが、今はもうない。当時から、陰気で古い塔は壊される予定になっていたもので、せめて、牢獄というわけで使われていたそうです。民衆がこのバスチーユへ押しかけて革命は始まりました。

 タンプル塔。王一家がヴァレンヌへの脱出に失敗して幽閉されたというタンプル塔。丁度、上の地図の右上辺りらしい。ナポレオンの命令で取り壊されたといいます。今はパリ3区の区役所で小公園になっているらしい。

 コンシェルジュリ宮殿・・・革命当時の牢獄・・・独房見学OK。ギロチンもあるんですって。ノートルダム寺院の西となりです。
 古い白黒映画「二都物語」チャールズ・ディケンズ原作です。たしか・・・この映画でみた・・・・明日は断頭台かという、とらわれの身分高き貴族たち。取り乱すことなくお互いを思いやる感動的な最後の日々。あれはこの牢獄だったのでしょうか

チュイルリー宮  王が民衆に取り囲まれてヴェルサイユからパリに拉致されてからは、この宮殿が革命の中心になりました。正に革命進行の中心だった宮殿は、革命期には生き残ったのに、82年後、再び民衆の手で焼かれてしまいました。パリ・コミューンです。あ・あ・あ・・・・惜しいなあ!!!。今は公園。ルーブル美術館の西となり。
 82年後とは、ナポレオンの甥、ルイがプロシャに大敗北。パリ市の武装を解除し屈辱的な講和を結んだとして、怒った民衆がパリに火をつけた時の暴動で、パリの1/3が焼けたといいます。パリコミュユーン以後はフランスはずうっと共和国です。


 パリ市庁舎   パリコミューンで焼失後、再建されて革命時の外観に戻しているそうですから、これはしっかり見なくっちゃ。スケッチもしたいものです


| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »