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2008年8月30日 (土)

「天璋院篤姫」上下  宮尾登美子

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 「天璋院篤姫」上下、異例の速さで読み終わりました。グングン本が引っ張ってくれた感じで、2日半で完読です。そして、この本で、今までバラバラだった知識がしっかりつながりました。西郷とか、徳川慶喜とか・・・勝海舟・・今までは、官軍側からの知識ばっかり。今回、しっかり徳川の大奥から見た幕府の内情・・・官軍が迫っているのに、幹部大名は行方知れずとか、藩へ帰っていたり・・・オロオロと右往左往するだけの木っ端役人。徳川本家を守りぬいたのは篤姫でした。家茂が2度、京都に上ったこと、そして怪しげな死など、今回初めて知りました。慶喜を変節漢と嫌う篤姫が16代将軍にと推したのは田安家、5歳の亀之助。結局、戦わずして江戸城は3日間の融余の後、官軍に乗っ取られます。
 亀之助、成人して家達、篤姫は「この家に生まれた子は男女いずれなりとも必ず島津家と縁組せよ。静岡の慶喜の子供とは婚姻を避けて欲しい」と言い残します。篤姫の亡くなった年、明治新政府の元、華族令が定められ、徳川本家は公爵に、慶喜の四男は男爵になったと言う事です。
 それにしても頼りない今の日本の政治・・・・ ももりは政治向きの話はトンとダメなんですけど、「慶喜って民主党のオザワみたいな奴ゃな」って思って読みました。まっすぐ相手を見つめず、どこか人を小バカにした物言い、勇ましく色んな事をでっちあげるけど、イザとなると、ドロン!!今の日本も幕府末期みたいな事なかれの右往左往・・・・外国はすぐ、そこに迫ってるってのに・・・ね。

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2008年8月28日 (木)

への突っぱり

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 オリンピックの柔道選手で、一言で大好きになった選手がいました。お名前は???ちょっと・・・
「これからやりたいことは???」って聞かれて「遊びたい・・・イ・・イヤ・・・練習したい」って言った人です。
彼が言った一言・・・それは「への突っぱりにもならへん・・・うんぬん・・・」そこばっかり記憶に残って、他がアヤフヤなのは全く申しわけない次第です。
 「への突っぱりにもならへん」って、日常的に使います。TVでは、「東京じゃそうはは言わない、「への河童」なら言うけど・・・」って識者が解説してましたけど・・・
 「への河童」と「への突っぱりにもならへん」っていう言葉は全然意味がちがいます。「への河童」はヘッチャラで出きることでしょうし、「への突っ張りにもならへん」って言うのは、まるでスカ。何の役にも立たないような人、あるいは事柄を言います。
 ももりなんか、小さい時に、父親から「じんこ(沈香)も炊かにゃへもひらぬ」とか、よく言われてました。
ところで、京都では10数えるのに「ぼんさんがへをこいた」って言うんですけど、これは奈良や大阪あたりも言うらしい。ところが、京都ではそのあと続けて「においだらくさかった」といいます。ハイ。これで20・・・
 友人に聞いたことがあります。
「兵法に3つある。ブー、スー、ピー。ブーは音高くして実(ジツ)無し。スーは音なくして、薫強し。ピーは・・・・スミマセン。ハイ、もう止めます。
 ヨーロッパのエチケットでは食事中は、ゲップはダメだけど、屁は・・・しても・・許される・・とか・・・ショーモナイ!!・・・ホンに お前はへのような・・・

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2008年8月27日 (水)

二人の篤姫

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もう、我慢できないって、「天璋院篤姫」宮尾登美子  講談社文庫を買ってきました。一気に3時間ほど読み、まだまだ読みたい!!!これは終わりまで読めそうです。松阪慶子の老女「幾島」は、TVではあんなに、堂々とした押し出しの美女ですが・・・原作では、

 髪の黒さを見て、まだ若いとばかり思っていたのに、今上げた顔には深い皺が刻まれ、それは良いとしても眉間の真ん中に、月見だんご程のまるい大きなコブが突出している・・・・初めて幾島に会った篤姫は、思わず声をあげそうになるほど驚いた・・・とあります。
 篤姫が「こぶ」っと、腹を立てて、幾島のこぶめがけて、ハッシと扇子を投げつける場面もあり、原作とTVの違いがマタマタ面白い。小松帯刀なんか、まだゼーンゼン出てこないし、碁を打つ場面もありません。脚本と原作ってホント、別物なんですよねえ。

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有吉佐和子さんの本には、和宮は替え玉であったと書いているそうですが、作家って、ホント達者な創造力を持って、人物を造りあげるんですねえ。
 それにしても、「徳川慶喜」の本を図書館から借りて、まだ途中なのに、こうも、簡単に目先がクルクル変わって、読み終われないってのは、最近のももりの悪い癖です。そうそう・・・新年には「ローマ人の物語」を、今年中に読むはずでした・・・

 

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2008年8月26日 (火)

和の宮さんの遊び場所

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 スケッチは宝鏡寺。皇女和の宮が幼い頃に遊んだお寺と聞いていましたので、涼風がたった先日、早速、ママチャリで行って来ましたが、拝観謝絶。秋と冬には特別公開しているお寺で、別名の「人形寺」の方がよく通ります。捨てたいお人形の供養や、魂を抜いてくれると聞いています。ももり自身は、女の子だったこともある???クセにお人形は嫌い。だって、いつも、同じとこを見てるから、気持ちが悪い。
 TV「篤姫」に皇女和の宮が、いよいよ登場。中村メイコのいじわるばばあ女官が傑作!!!スッキャナア!!!天皇を演じてるのは東儀秀樹氏。東儀家は代々宮中の舞楽を司る家でしたが、天皇が東京に遷られた時、天皇にお隋きして東京へ下ったの東儀家。京都に残る東儀家の当主は、先年逝くなられた東儀一氏で、有名な洋画家でした。親しく、絵を見ていただいたこともあり、TV「篤姫」の中で、東儀氏を見た時、亡き画家の東儀一氏に、あんまり似ていてビックリしました。ところで、上京って、京都へ上ること???それとも東京へ行くこと???どちらなんでしょう???

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スケッチは不審庵と今日庵。堀川一条の辺り、千家があり、お茶道具屋さんやお菓子屋さんが並んでいて、静かでとても良いところです。すぐ前の本法寺は本阿弥光悦の作庭、巴の庭が有名です。

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2008年8月22日 (金)

勝海舟から篤姫へ

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 この貴重な写真はももりが、まだ若くて、元気、世の中もバブルで「アート、アート」と浮かれていたころ、茨城県の素封家で拝見したもの。勝海舟の直筆、金屏風の六曲二双です。すっぽり桐箱に収められた屏風には謂れ書きも着いています。「ご先祖様が直接勝先生に書いていただいた」宝物です。なにしろ、当時のももりの腕がイマイチで、暗い中の撮影でもあり、ピンボケなものですからスキャンしたって、この程度しかアップできません。大体の意味は
「皇国の一大府(東京)  この中に住む無辜の民  どうして焦土とできようか  これを思えば、一人心が痛む  八万の幕府の士たちよ われをののしって大奸というけれど  知ってるのだろうか天策を奉ったことを  
今安らかな全都を見る  義軍よ、殺す事を嗜しむことなかれ  
全都を空にするまで殺す事を愉しむことなかれ  われに清野の術がある  魯が那を挫いたことにならおう  官兵が城に迫る日  われを知るは一人南州だけ  一朝機事を誤れば  百万は髑髏と化す」

ももりが勝手にわかりやすく読んだつもりのものですので、間違いもあると思います。どうか、お許しください。最近TV[篤姫」が面白くて見てるのですが、大政奉還については、殆ど何にも知らないことを痛感しました。西郷南州と勝海舟が江戸城で談判した・・・程度のことしか知らなかったのです。今、チョクチョクその周辺の本を読んでいますが、面白い!!!15代徳川慶喜は・・・トンでもないエエカゲンな男???それとも・・・彼のおかげで内戦にならなかった???ナポレオン3世に貰った軍服をきて、フランス語もちょっとはしゃべったとか・・・写真が趣味で・・・沢山子供をこしらえて・・・ホント、男前。さ・あ・あ・・・面白くなってきました。やっぱり、歴史って人間に動かされてるんですね。
  

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2008年8月20日 (水)

崖の上のポニョ 見てきました

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  とても混んでいて、中々席が取れないって聞いていましたので、8:30からのを見て来ました。映画館へ自転車で行ける・・・それに今日は女性の日で1000円なのがうれしい!!!
 よかったぁーーー!!!ですよ。ストーリーをここでお話する事が出来ないのが残念至極。ジュラ紀、カンブリア紀って・・・言葉は聞いていますけど・・・太古の海・・生命が大らかに、たくましく生まれ出る海・・・命のみなもと・・・その海への憧れが、宮崎駿監督のメッセージをそのように解釈しました。
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今回、コンピューター・グラフィックスを使わないで、全部手仕事、つまりぃ、絵を描いてるんだって聞いていましたので、それも楽しみました。本来、絵ってこういうものなのよねえ。展覧会に向けて絵を作るなぁんて・・・ね???でも、こんなに魅力的な日本人って今頃見ないなあ。それこそが宮崎駿監督の古い日本精神への回帰願望なのでしょう。スケッチはゼーンゼン関係ない!!!シュン・・・
 

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2008年8月19日 (火)

ユージン・スミス展 京都国立近代美術館

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 名前だけは知っていましたけれど・・・こんな凄い人だったんですね。ユージン・スミス。アメリカインディアンの血を引く母から写真技術を学びます。飛行機を撮っているうちにカメラの魅力のとりこになり、「ライフ」のカメラマンとして注文通りに撮る仕事に我慢できず・・・やがて念願の戦場へ。
 第2次世界大戦下のニューブリテン島のラバウル、マーシャル群島、マリアナ海域、サイパン、レイテ・・・・日本軍とアメリカ軍の交戦の真正面に常に彼のカメラはありました。そして、沖縄戦、日本軍の砲弾を受けて、破片が体中に残る大怪我をします。2年間の治療の後も、身体は元には戻りませんでした。32回も手術を受け、それでも、取り除けない破片が無数に体に残ったのです。結局、その破片が命取りになりました。
 それは水俣病の原因をつくったチッソ本社での患者たちの座り込みの時でした。会社側が被害者やユージンを暴力的に排除したのです。その時、危険な部位にあって取り除けなかった破片が、神経や血管に食い込み、決定的に傷つけてしまったのです。激痛が走り、失明の不安もあります。仕事中に倒れることもありました。チッソを訴えるようにすすめる人に、彼は「殴られたからと言って取材した会社を訴えたら、誰も僕の写真を信じなくなる。あいつは、会社に恨みがあるから、こんな写真を撮ったんだろうって」
 彼は日本を愛し 特に水俣の地を愛しました。薬害で思うようにならない身体になった患者たちや、周辺の村人達との交流は深まります。「これまで、取材した場所で、水俣ほど立ち去りがたい思いのする場所はありません」と、彼は語っています。彼の下で働いた日本の若いカメラマンたちからは多くの優れた人材を輩出しました。
 彼の写真を通して、強烈に訴えるもの・・・それは激しい社会正義です。白黒で切り取られた弱者は、しかし、恨んで泣いてばかりはいません。酷薄な環境下に生きる人間なのに、なぜか・・・微笑んでいたり・・・します。悲しみ、苦しみの最中にいる人々への、やさしさ・・・人間の尊さ・・・を訴えています。59才、若すぎる死でした

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2008年8月17日 (日)

北京 今は昔

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 どうですか・・・1983年9月の天安門広場。今日はここでマラソンです。こんなに閑散としていた時代もありました。25年前。ももりもまだ、少しはワ・カ・イ!!!選手の皆様のご健闘を祈ります。Seian2


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当時の北京駅。今はこんなのは、もうとっくに無いんでしょうね。このときの旅は、毎日新聞が募集した「三国志の旅」っていうもの。そっりゃあ・あ・・スッゴイ旅でしたよ。

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2008年8月14日 (木)

大山巌が好きなのは・・・第2が私

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 先日来、書いてきました山川捨松の夫となった大山巌・・・この人物はよほど魅力的だったと見えます。乃木希典ばかりが取りあげられて、議論百出・・・愚将であった、いやいや、ハラきりで有名になっただけ・・とかしましい。・・・・・しかし、乃木は、満州軍総司令官大山巌の下にある、第三軍司令官にしかすぎない・・・南条範夫は、言っています。以下、概略
 日露戦争の立役者としては、通常、海の東郷、陸の乃木の2将軍が並置されているがこれは明らかに間違いである・・・中略・・・その最高将師としての地位においても、その赫々たる業績においても、満州軍総司令官大山巌でなくてはならない。
 
大山巌、幼名弥助は西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎もみな同じ、薩摩、鹿児島城下の加治町に生まれています。生涯軍人で、7度戦争をしています。薩英戦争が22才。その後、長州征伐、鳥羽伏見から会津征伐、神風連の乱、西南の役、日清戦争、日露戦争・・・75才、大正13年に死んでいます。元帥、公爵に叙せられました。長州征伐では、砲兵隊長として、後の妻、8才の咲子の籠る若松城に砲弾をぶち込んでいます。捨松との結婚に際し、「旧来の仇の後妻になんぞ、トンでもない」とのこわ談判に「従来の敵といえども、お国の為、トップ同士が手を握らなくては」と言ったのが西郷従道だったといいます。
 日本初の学士妻、捨松をして「主人が好きなのは、第一が児玉さん、第2が私、第三がビフステーキ」と言わしめた男、大山巌、と、児玉源太郎。この絶妙のコンビが寡兵の日本を辛くも勝利に導いたようです。司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公、秋山好古が、奉天攻撃の大山場で、児玉源太郎に援軍を何度も乞うのに「また、騎兵隊から同じことを何べんもくりかえして頼みにきよる」っと取りあげずにいるうち、殷々たる砲撃音が総司令部にも響き始めた。そこへヌッと顔を出した大山巌は「今日はいくさがごわすか」と言ったといいます。司令部が前線に出るということが全く無かった、後の拙劣な戦争と敗戦を思えば、、明治の軍人はやっぱり、格が違いすぎます。
 日露戦争、沙河の戦いといえば、ももりの実家、田中の家の跡取り息子が戦死した戦いです。お墓への入り口に大きな石碑があって「ご先祖さんの碑なんやでえ」って聞いていましたけれど、、ある日、何気無く読みましたら漢字ばかりですが「福知山連隊・・・沙河之戦・・死」とありました。お家が絶えると養子に入ったのがももりの父、そこへ嫁いだのが母で、母は、そのご先祖様の生まれた節分の同じ日の生まれであったため、「死んだ息子の生まれ変わり」だと、婚家の両親にはとても大事にしてもらったといつも言っていました。お盆、さああ・・ご先祖様たちに会ってきましょう。スケッチは鹿児島「磯御殿 尚古集成館」

 

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2008年8月13日 (水)

今、みずきさんを守りましょう

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 可哀そうに・・・野口みずきさんの思いつめた顔がまだ強く脳裏に残っています。北京オリンピック、マラソン不出場を決めた野口みずきさん。・・・・どうか、みんなでやわらかく・・あんまり、ドーノコーノ言わずにそっと迎えましょう。
 可哀そうに・・・・あんなにまで・・・スイスの合宿のTVを見て、嫌な予感がありました。痛々しい!!!あそこまで追い込なまくっても良いのに。マスコミも、負担をかけ過ぎました。それに、コーチやトレーナー、体を管理するプロも付いていたんでしょう???水木さんは走ってるのに、コーチか、トレーナーか知らんけど・・は、車ですよ。あそこまでやらさなくってもいいのに。
 どうか、皆さん、そっとしてあげてください。

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2008年8月10日 (日)

大政奉還と篤姫

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「大政奉還」・・・これは、本当に知りたい場面です。大阪城内と御所の駆け引きでなった無血クーデターなんでしょうか???徳川慶喜は会津藩や桑名藩の武士たちに幕藩体制を守らせながら、自分はさっさと、大政を朝廷にかえしてしまった。それを受けた朝廷にいたのは、あのいやらしい岩倉具視。篤姫は、どう慶喜にからんでくるのでしょうか???・・・TVが楽しみです。司馬遼太郎「龍馬がいく」では、勝海舟から教えを受けた坂本龍馬が、大政奉還を土佐の後藤象二郎に入れ知恵し、及び腰の山内容堂は釣られて腰を上げた???武力で幕府を潰そうと積み上げてきた薩摩や長州の目の前で、アブラげをさらったような印象です。京都の朝廷は幼い天皇に玉璽を押させた中山ナントカという公家が登場します・・・・さ・あ・あ・・・・会津の悲劇も元はといえば、この、ヌエのような慶喜の一人芝居のせい????さ・あ・あ・・・マタマタ暑いコメントが楽しみです。中京の夏、本当に暑いけど、ブログでの舌戦は暑いほどうれしいのよねえ。スケッチは薩摩、鶴丸城・・・だったと思いますけど・・・自信なし

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2008年8月 8日 (金)

山川捨松と大山巌 そのⅡ

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 11才でアメリカへ留学した捨松は、素晴らしい成績で、バッサーカレッジを卒業します。卒業生代表に選抜された10人の中の一人でした。捨松の演説のテーマは「「イギリスの日本に対する外交政策」というもので、当時の、イギリスを始めとする列強によって取り決められた治外法権の内容を説明し、その不平等を指摘、「イギリスの権力が更に増長する事があれば、日本国民は最後の一滴の血を流してでも抵抗するであろうし、国の独立の為に闘うことを決して止めないだろう」と述べ、満場の喝采を持って迎えられました。涙を流す人も多かったのです。幼くして、身をもって、お国存亡を体験した会津の女ならではの切実さと激しさです。
 そんな捨松の帰国。24才.国際的視野を養い、はっきり自己主張する捨松を迎えたのは、しかし、旧弊な明治の男社会でした。皇后から「お国の為に勉学に励み、婦女の鑑となるよう・・・・」と言われて使命感に燃えて学んだアメリカでの日々は何だったのか。24才といえば、もう嫁き遅れ。悶々と悩む日々を、アメリカの親友アリスに書き送っています。そっと芽生えた恋、しかし、相手は・・・「子供っぽ過ぎるのです・・・・」
 そんな日々、捨松に猛烈突進したのが42歳の厚かましいフランス帰りの大山巌でした。「巌」とはフランス帰りの船の中でつけた名前で、幼名は弥助。西郷隆盛の父と弥助の父親は兄弟です。弥助には3人の娘(4人のうち一人死亡)がおり、先妻の一周忌も済んでいなかったのです。それに、薩摩と言えば、会津藩を朝敵に貶めた、恨み骨髄に徹する仇敵ではありませんか。スケッチは薩摩、桜島

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2008年8月 6日 (水)

山川捨松と大山巌

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 昨日アップしました本、上の女性が日本初の国費留学生、山川捨松です。幼名、咲子・・・留学に当たり、「捨てて待つ」という意味で、捨松と名を改めたといいます。彼女は会津藩の家老の末娘に生まれました。
 会津藩の悲劇は若き藩主、松平容保が、京都守護職に認ぜられたことに始まります。そもそも、会津藩は、2代将軍秀忠の妾腹、正之より興ります。お江代の方の悋気に恐れをなした秀忠が、正之を保科家の養子としたのを、3代家光が、会津の肥沃な土地23万石を処遇し松平姓を名乗らせました。そんなことから、将軍家への忠誠心が非常に強かったといいます。幕末、将軍家は敗れ、会津藩は賊軍になりました。そして、会津戦争へ突入。このとき捨松、8才。籠城している若松城に飛んでくる敵の砲弾に、濡れ布団をかぶせるのが女子供の仕事だったといいます。多くの婦女子が死にました。足手まといになるよりはと自刃したもの200余名。白虎隊の悲劇も起こりました。
 戦後、容保が蟄居を命じられたのは斗南の地。本州最北の荒蕪の地でした。地獄の日々だったと言います。
そんな中、政府の女子留学生募集の第一次には、全く人が集まらず、なんとか5人を工面したのです。
 しかし、アメリカの日々は良き庇護者を得て、本人の素質、努力も凄く、自由で、自発的な意志で行動する人間として成長し、12年を経て帰国。
 しかし、日本は頑迷な男社会、それに、日本語を忘れてしまっていたこともあって、活躍の場が中々ありません。「やっぱり、結婚していないと女性は認められない」・・・そこへ、求婚者が現れます。フランス帰りの大山弥助・・・改名して巌。弥助は18歳も年上で、先妻を亡くしたばかり、4人の幼い女の子を連れた男やもめでした。彼が日清日露の連勝将軍になるのは、まだ先のことです。スケッチは京都左京区金戒光明寺、会津藩墓苑参道と、奥は、秀忠追善の三重の塔

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2008年8月 5日 (火)

日本初めての女子留学生

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 このところ、面白い本に恵まれてシアワセ・・・図書館で借りて帰って、そのまま一気に読み終わってしまえる本ってのは、わりと少ないものです。
 先日来、「小野寺百合子」の本を何冊か取り上げました。明治女の骨太さ・・・私の母も明治生まれ・・・典型的な明治女でした。女子師範を出て、教職に、そして7人の子を生み、結局、5番目の私が乳児結核になり、同じ頃、戦争も始まって教職を止め、田舎へ引っ込みました。職業に誇りと喜びを持っていた母の前に立ち塞がったのがももりだったのです。明治の女子の教育とはどんなもので、どのように変っていったか???
 
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アメリカへ官費留学したのは、5人。留学期間を勤め上げて、無事、帰国したのはそのうちの3人。3人の留学時の年齢は
 山川捨松 12才。永井繁子 9才。津田梅子 8才。
 明治維新で、敗者となった旧幕藩の侍の娘たちです。けなげに一族の誇りを胸深くに、皇后のお言葉を拝謁し、アメリカ号に乗り込んだ娘たちの生涯。それぞれ作家が、ご先祖様のことを描いていますので、全編に愛情が溢れていますが、資料を調べ上げたようで、おごり高ぶったようなゴマカシは感じられません。
明治っていう時代の精神世界。特に女性たち、ももりも含めて・・・昨今の女子供は爪のアカでも煎じて飲まなくっちゃ・・・

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2008年8月 4日 (月)

映画 「西の魔女が死んだ」 

Majyo

 久しぶりに、涙腺の大掃除。
「ア・ラ・ラ・・・・どうしよう・・・止まらない」横隔膜がクッククックと動いています。場内は明るくなって、お隣には、もう人はいません。「さあ・あ・・出なくっちゃ」急にせきき上げるように泣いてしまったのは、日頃、ボンヤリしたももりが、一体どうしたのでしょう。そりゃあ、みんなクスンクスンとやってるようだったけど・・・ももりのは異常反応???
 映画「西の魔女が死んだ」見てきました。
ももりは、ずーっと、小さな書道教室をしています。ある日、そう・・・もう10年ほども前、ヨーコチャンが言ったのです。「センセって西の魔女みたい」ヨーコちゃんは本が大好き。ももりも本が大好き。いつも、本のお話をしてました。その時、本も読んだのですけれど・・・内容は、もう、忘れていました。
 その一言が、どうも、気になって見に行ったのです。
登校拒否の孫娘がおばあちゃん・・・信州でしょうか??山の中で、一人、暮らしているイギリス人のおばあちゃんの所へエスケープします。おばあちゃんは魔女・・・
ありのままの孫娘を、ありのままに受け入れての生活。私はすっかりおばあちゃんの立場で映画を見てしまったのです。一人暮らしだったおばあちゃんにとって、孫との生活は、そりゃあ・・・久しぶりに、魔女は人間に戻っていたのでしょうか。うれしい、重いものだったにちがいありません。孫娘の青臭い反抗!!!そして、おばあちゃんの元を去っていきます。そして、2年後、魔女は、一人、心臓発作で死にました。
 一人!!!潔く一人で生きると言っても、孤高を保つ強さは常人ではありません。おばあちゃんは、やっぱり、本当に魔女だったんですね。母親も魔女の血統、孫娘も魔女の血統・・・激しくきつい!!!
一人死ねるって・・・凄い!!!
ヨーコチャンは、もう、結婚したかしら???ハガキでも出してみましょう。お時間ありましたらゼヒゼヒ・・・

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2008年8月 1日 (金)

一隅を照らす

Hiei

 「一隅を照らす」って比叡山の最澄師のお言葉でしょうか。このミニコミ誌の表紙の絵がももりの絵です。我が家は天台宗、比叡山です。お寺は金蔵寺。紅葉がとても美しく、マイナーですけど、時々TVなんかで紹介されています。昔は、有名な「花の寺」よりずーっと広大な領地を持っていたそうです。
 「なむかんどまじんばらはらばりたやうんごん なむかーみろしゃなまかぼだら・・・・・???」
この家の若い嫁であったころ、毎月お坊さんが来て、お経を上げていただく後ろから、うちわであおいだりしている間に憶えました。意味はさっぱり???間違っているかもしれません。
 若かったなあ。出来の悪い嫁やった。中京では「お火たき」っていうのもありました。大きなお釜に火を燃やして、「伏見さん」って言う行者さんが、おまじない???なんかを唱えます。お釜がゴーゴーと大きな音を立てるほどよいんですって。私が来た年、それはそれは大きな音を立てました。「ええ嫁や、ええ嫁や」って言ってくれたのは、ひょっとして???あの行者「伏見さん」くらい???でも、いつの間にか、若い嫁は、ジワジワと根を下ろし、中京にデーンと居座ってもた・・・女ってしたたかなもんやなあ

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