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2008年6月25日 (水)

模写と創作

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 この写真は、朝日新聞社発行 アサヒグラフ増刊 昭和43年8月1日発刊に拠っています。ももりは若い頃、二条城の壁画模写の作業場を見たことがあります。日本美術史の権威で、大学時代の恩師の土井次義に連れて行っていただきました。「これは・・・とんでもない。腰が・・すぐにいかれてしまうう・・・」絶望的な光景でした。下に置いた原画の写真を見ながら、チビチビと5ミリほどものカケラを絵の具で再現していく作業は、創作でないだけに、つらい。全く自分をゼロにして、ニセモノを造るのですけれども、画材から技法まで、古い技術の再現には限りない知識も必要です。
 火災は、電気座布団から出たのですが、「画家たちがヌクヌクと電気座布団なんか敷いて仕事をしているから・・・」という非難は、つらいものだったに違いありません。当時、法隆寺は、終戦前、昭和15年、空襲から守るための解体の途中で、屋根は仮のトタン屋根。周りは隙間だらけで、よしず張りの囲いがしてあるだけ。冷たい風がびゅうびゅう吹き込み、雪の日には手元にハラハラと雪がかかるという状態だったといいます。しかも、薄給でした。損得を忘れ、この壁画を、真実愛するものだけが残って模写を続けていたのです。途中で見切りをつけて去っていった絵描きたちが、模写に携わっていた絵描きたちを非難したのは、残酷な事でした。仕上がりかけていた労作も、この火災で焼失してしまったのです。しかし、15年も放置されていた白壁に模写の仕事がはめ込まれたのは、模写が再開されてほとんど1年後、昭和43年です。他の一切の仕事をなげうち、精魂込めての再現でした。火事を出してしまった絵描きたちの痛恨の心根と再現への責任感がしのばれます。

Gangouji

 奈良国立博物館を出て、元興寺へ足を伸ばしました。かつては興福寺より大きなお寺だったそうです。曽我入鹿が飛鳥の地に建てた飛鳥寺が平城京とともにここに来た、と、解説にはありました。若い頃訪れて、「荒廃した感じ」って言う印象を抱いていたのですが、落ち着いたケレン味のない素朴なお寺は国宝です。曽我入鹿が渡来人の工人に作らせたという創建時のままの瓦が、やわらかい色調で梅雨空に溶け込んでいました。オヤオヤ???どうしても、下線が退いてくれません。ももりはしばらくブログ、お休みします。

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2008年6月20日 (金)

法隆寺金堂が燃えた日

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 「国宝 法隆寺金堂展」 見て来ました。感動しました。今では、法隆寺金堂が火災により、その貴重な壁画の殆どが焼失してしまったことを知らない人が殆どでしょう。昭和24年1月26日朝。しかも、火災の原因は壁画模写に携わっていた絵描きが使っていた電気座布団のスイッチの切り忘れが原因でした。
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 絵描きたちに浴びせられた冷たい世間の非難の中、法隆寺は解体修理され、修理は29年まで続きましたが、金堂内部の、絵があった壁面は真っ白のままで、十数年の歳月が過ぎていきました。ようやく、「このままではいけない。我々が失ったものは我々の手で再現しよう」と、昭和39年壁画再現の企画が持ち上がり、焼失時、模写に従事していた絵描きたちが集まりました。前田青邨、安田靱彦、橋本明治、吉岡堅二・・・匆々たる顔ぶれです。若い絵描きも集められ、平山郁夫、守屋多々志、近藤千尋、岩橋英遠、吉田善彦、羽石光志、野島青じ 大山忠作の顔が見られます。

 朝日グラフ増刊「壁画再現」は、ももりが、昭和43年に京都市美術館で開催された「法隆寺展」で買ったもの。なんと280円です。下のチケットは、左、今日行ってきた奈良国立博物館のもの。右、昭和43年京都市美術館で開催された「法隆寺展」のチケットです。たまたま、本にはさんでいました。Houryuuji_003

 「自分達の不注意から、貴重な文化財を焼失した」この思いは、どれほど重いくびきであった事でしょう。再現模写された壁画はその画家たちの魂魄のにじみでるような迫力に満ちています。緻密な作業に加えて、これほどまでに描けるかと技量の真髄を思い知らされました。焼失前に模写をしていた絵描きたちに、新しく若い力が加わって、再現された模写は昭和美術の傑作に違いありません。(No627)>「法隆寺展」は7月21日まで。(No627)

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2008年6月19日 (木)

六波羅蜜寺と地獄

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 今朝の毎日新聞「六波羅蜜寺で十王図 数十年ぶりに発見」と出ています。昨日、六波羅蜜寺のスケッチをアップしたばかり。空也上人が創建したといわれるこのお寺で、行方不明になっていた「十王図」が、 お倉を整理したら出てきたそうで、今、宝物館で展示中とか。「十王図」って、面妖な図柄です。上半分は冥界の十王、下半分は地獄が描れているそうです。地獄って、バチカンの天井画にもあるし、ボッスとかも描いていて、洋の東西を問いません。ホント、最近も地獄から這い上がった男が秋葉原に現れました。

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 六波羅密寺のすぐ近くにある「六道珍皇寺」の境内に、地獄の入り口といわれている井戸があります。通称「冥土通いの井戸」。小野篁が昼は嵯峨天皇に仕え、夜は地獄の閻魔大王に仕えたといいます。先日、行ったのですが、井戸には近づけませんでした。地獄に引っ張り込まれなくって良かった!!!荒んだ感じのお寺で拝観料もいりません。ほの暗いお堂があって、閻魔大王と小野篁の像が、じっとこちらを凝視していました。
 この辺りは死者を、鳥辺野の火葬場へ送ったところです。鳥辺野は、今の大谷廟の北の端、コンクリート舗装されてはいますが、ヒイヤリと寒い細道を登っていきますと、清水寺の境内に出ます。お墓ばっかりですが年代なんかを見ながら行くと、すっごく古い。頂上からは京都が一望。その日は飛行船がぽっかりと浮かんでいました。

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2008年6月18日 (水)

心にも あらで憂き世に ながらえば

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 百人一首 三条院のお歌

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 

百人一首で知っていたものの、今回、源氏物語に興味を持ったおかげで、この歌が急に身近な歌になりました。「日本の歴史 5」 土田直鎮 中央公論社によりますと
三条天皇は藤原道長によって、攻め立てられ・・・勿論、武力に寄らず政治的にですが、皇太子期25年で天皇に即位、たった4年半で退位。翌年、崩御されています。三条天皇は冷泉天皇の第2皇子で、2人の皇后を持ちました。一人は、バックに力を持たない故大納言藤原済時の娘、せい子。もう一人は道長の次女、けん子。けん子は道長の横槍によって、強引に送り込まれた18歳の娘で、子もいません。一方、せい子は6人の皇子皇女があり、敦明という跡取りの親王までいました。1012年4月27日、けん子とせい子の二人の立后は同じ日に行なわれることになり、時の堂上人の殆どが道長の娘、けん子のほうに出席し、せい子はとり残されたといいます。おまけに、不幸な事に1014年2月、翌年11月と続けて内裏は炎上。当時、火事は、祟りと考えられ、道長は三条帝に退位を迫まります。次第に片目、片耳が聞こえなくなり・・・なんの病気だったのでしょうか。42才で崩御。跡取りの敦明親王は三条上皇崩御の後、たった3ヶ月で道長の外孫、敦成に次期天皇の座をかすめ盗られてしまいました・・・・ですって。スケッチは六波羅蜜寺と、そこにある平清盛像。運慶作と伝えているそうです。以前、なぁんにも知らずにスケッチしてました。それにしても、目が見えなくなっていく上皇にとって、夜半の月を見ることも、もう、なくなるかと思えば・・恋しかるべき夜半の月・・・・おいたわしい。(No625)

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2008年6月17日 (火)

平安京の住人

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 上はももりの家から、最寄のJR、「丹波口」駅構内にある「平安京朱雀大路」の石。もう一つは、市バスの最寄の駅「四条中新道」の曲がり角にある「朱雀院跡」の石碑。今ある京都御苑、御所はずーっと東ですけど、平安時代はももりのお隣組に建っていたらしい。京都アスニーには、大きな平安京の模型があります。確か1/1000でした。この模型は左半分は平安初期、右半分は平安後期を再現しているそうです。一条と二条の間、御前通りと堀川の間に内裏はあったようです。ももりが今住む四条と五条の中間の高辻通り、南北を走る御前通りはその頃???・・・ももりの家は???畑らしい横に小さな家が建ち並んでいます。へ・え・え・・・・なあぁんて面白い!!!
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2008年6月16日 (月)

食べ物の話

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 自分のブログを振り返ってみて、全く食べ物の話をしていませんね。たまに釣りキチのお料理の話くらい・・・どうやら、ももりはやっぱり食べ物には殆ど興味が無いらしい。料理人がこんな事では、家族は可哀そうなような気もするけど、相棒は食べ物にはうるさい。時々ムカついて、腹を立てているのがこういうケース。
 
 ちょっと張り込ンで鮎を焼いたとしましょう。
「たで酢は????」これってムカつくのよねえ。
美味しいおソバだから天ぷらをあげた。
「これは蕎麦だしやろ。天つゆはどれや????」これって、ムカツクのよねえ。

 料理屋やプロの料理人じゃなし、家庭料理って、ホント、素朴なものでよいはずです。今にサツマイモのふかしたのしか、お膳の上の上には出せないっていう日がくるかもしれないよ。それに・・・餓えてる人たちだって世界にはいっぱいいるやないの???スケッチは1890年って書いてる天童市 

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2008年6月15日 (日)

地震被害者の方へ お見舞い申し上げます

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 大変な地震が発生しました。被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。あのような断層って日本には一杯あるそうです。本当にコ・ワ・イです。何人かのブログ上の友人のブログを開けましたが、どなたもブログどころではないようです。心より、心よりお見舞い申しあげます。スケッチは中尊寺

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2008年6月13日 (金)

追われる者、追う者

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 酷い。酷すぎる・・・そんな事件が多すぎます。ウ・ウーン・・・ももりは一人思ってるんですけど・・・
 
私達、普通、怖い映画とか、TVとか見るとき、たまらずスイッチを切ったり、目をそむけたり・・・これって、自分が追われるって言う立場で見てると思うのです。もし、追う立場で見ていれば、ゾクゾクと肌に泡立つ快感っていうことなのじゃないでしょうか???人間にとって、「怖がる」ことは身を守る根源的な感覚です。ところが、怖がる事を、攻撃する欲望にすり替えてしまったツールがあるんじゃないか???例えば、ゲーム、たとえば、TV。ももりの年齢ではゲームなんか、実際の所は知らないのですけれど、攻撃して追いつめるっていうのが多いにちがいありません。スイッチ一つで、毎日、敵を殺していたら、オカシくもなるでしょう。
 昨日、中校生くらいが信号待ちで、道路をはさんで大声で、やり合ってる「コロッソー・・・{殺すぞーらしい}彼らは笑ってはいましたけれど・・・スケッチは古い画帳から

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2008年6月12日 (木)

パソコンの初仕事

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 HPとかブログとか、好きでやってますけど、これはみんな自分の楽しみのため。写真が少々狂ってたって「気にしなぁーい!!」
 でも、今回、京都水彩画会のHPにアップする絵を、パソコンのデータ化するようにとのこと、「誰か、パソコン使えますか」そこで、会員みんなが一斉に「も・も・りさぁーん」ですって。
 「ちょっと待ってよ。そりゃあ、自分のはやってるけど・・・」トタンに自信はグラグラ。やっぱり、仕事というと緊張します。
 初日、写真を撮りました。会場にセットされた絵はみんなアクリルでカヴァーされていて、天井照明や、対面の絵が映ります、ひどい時には自分の影がクッキリ。スタッフに助けてもらって、絵を傾けたり、外して場所を変えたりして撮影し、小さなデジカメの画面を確認して帰宅。・・・ところがアップしてみたら・・・なんと、なんと・・・お向かいの壁の絵が小さくズラリと並んで映るってるじゃないの。又、自転車をこいで会場へ。撮り直しました。「まあ・・・素人なんだから・・・私の腕はこの程度・・」やっと、昨日届けました。真実「ホッ」  
 パソコンだけで、画集を作ったこともあるももりですが、それらはあくまで自分だけのおアソビ。会の仕事というと「エライコッチャ。失敗せんとできるやろか???」って、心配でした。間もなく京都水彩画会のHPにアップされるはずです。京都水彩画会のHPは

http://www.kyotosuisai.com/09_news.html
スケッチは古い画集から「月山」って???東北でしたか(No620)

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2008年6月 9日 (月)

京都水彩会員会友展 明日から

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6月10日(火)~15日(日)  京都水彩会員会友展
   京都市美術館別館1F  9:00~5:00(最終日4:00)

「いたちの最後っ屁」???見たいなドギツイ文を出しっぱなしにして失礼致しました。今日はこの展覧会の飾りつけです。京都水彩のHPは
http://www.kyotosuisai.com/09_news.html

 上はももりの出品作「ソドムの街」
ソドムは実在の町ではありません。旧訳聖書に登場する悪徳の町。人間は、思いあがって神に届け、と、バベルの塔を建て、悪徳の限りを尽くしました。ソドミーとは男色の事だとか???ある日、神の怒りの火が降りそそぎ・・・
 現代文明も、もう、神の領域を侵していませんか。人間が、全く自分の意思とは関係なく、この世に生まれ出たことすら忘れ、なんでも出来そうに思いあがっていませんか???ある日、神の怒りの火が・・・・そう、漠然とした不安、そんなものを描きたいと思っているのですが・・・。

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2008年6月 6日 (金)

うば捨て山へ行きましょう

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 毎日新聞、今朝の朝刊「発信箱」中村秀明さん・・・この人が好きで、何度かブログに取りあげました。今回、「そうよ。もっと、もっと言いなさい。若い人!!!しっかりしなさい!!!」って応援します。以下、概略

 後期高齢者医療制度への批判に戸惑う事がある。
「これじゃあ、うば捨て山だよ」「さっさと死ねっていうのか」「戦後の復興を支えてきた世代にひどい仕打ちだ」と声を荒げる年寄りを目にすると、つらい。父親や母親に向かって、ののしられている気分になる・・・・ 

 
 ももりは67才。もう、年寄りです。でも、確かに声を荒げる老人を直視するのは不愉快です。不愉快とは言わないまでも、「年寄りにも覚悟ってモノがいるわなあ。エエカゲンにせえよ」って思うのです。ももりの相棒は間もなく70才。未だ働いてくれています。年金を需給して働く老人への課税というのは大変なもので、若い息子とははるかに差があるようです。生涯を通じて人の2倍や3倍は働いた人で、黙々と高額の税金や保険料を納めてきました。今も、黙々と・・・・
  しかし、一方、今、不足を言ってる人達は、納める税金も、保険料も少なかった人たちが殆どでしょう。「さっさと死ねって言うのか」ですって???老人の長生きこそが保険料負担の全ての元凶です。全く、心臓マッサージで生き返った人をチューブで生かすなんて・・・お話にならない。限りある地球の資源をナニサマと思ってる!!!決して、若い人のことをいっているのではありませんよ。

 ももりにも多くの年老いた友人がいます。このパソコンを読まないでほしいとは思いますが、若い人達に負担にならないように、老人だって、もっともっとつつましく我慢をすべきです。若い人のスネをこれ以上かじるのは、本当につらい。ことあるごとに救急車を呼ぶ人も知っています。病院では、老人より、優先的に赤ちゃんや子供や、働く若い人を先に診察してほしい。時間がたっぷりある老人は後回しにすべきです。そりゃあ・・・待たされたらつらいよ・・・
 うば捨て山があれば、姥捨て山へ行きましょう。戦後の復興が自然を破壊した面もある・・・・でも、でも、・・・ここで、中村秀明さん!!!マスコミの取り上げ方こそは、お涙頂戴で健康的ではないのよ。今の若い人はやさしい。でも、優しさは共倒れの覚悟も求められるのです(No618)

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2008年6月 5日 (木)

源氏の生きた京の都

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源氏物語にゾッコンとなれないわけは・・・???どうも、読むほどに義憤にかられる。「一国のトップともあろうものが・・ナンのザマじゃいっ!!!」素直に源氏の女遍歴を追えないような気になる現実家のももりです。
 以前に読もうとしたことはあります。与謝野晶子・・・本棚にあったのを出してきましたら上巻1/3ほど読んだ形跡がありました。今、パラパラ読みして・・・やっぱり主語がわからなくて・・・チンプンカンプン。読解力がありません。
 源氏物語の時代・・・京の町は加茂の河原には死体が散乱・・・放火、強盗、官吏の腐敗、加えて疫病がはびこって、庶民は大変だったはず・・・
 
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1011年、12月8日、9日・・・1017年5月27日・・・道長の家に押し込み強盗
1014年、正月13日、三条辺りの民火が火事、14日には検非違使トップの屋敷が焼失・・・29日群盗が親王家の屋敷を襲い、3月、御所内で放火、17日には御所の倉が焼失・・・連日のように放火・・・これらは「放免」の仕業という・・・「放免」とは検非違使の一番下の手下で、彼らは前科者と通じていた・・・といいます。
1017年7月、加茂川が氾濫。京の町一帯は大海の如くになったとあります。
 一方、疫病もすごい。定子、彰子の夫、一条天皇も、993年にほうそうにかかっています。都の街路は死者、病人であふれ、犬や鳥が死体を食い荒らしていたといいます。その他、はしか、流感、マラリア、おたふく風邪・・・これは「福来病」といわれたんですって。

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 どうじゃいっ!!!源氏さん!!!世の中こんなに乱れてるのに、女遊びなんかしてええのんか???スケッチは葵祭りと御所の建礼門

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2008年6月 4日 (水)

源氏物語 今は昔

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写真は「夕顔の墳」・・ア・レ・レ・・・夕顔って架空の人じゃなかったの???源氏の親友、頭中将の恋人、既に子もいる夕顔。正妻に叱られて、おとなしく引き下がった夕顔の隠れ家に忍び込んだ源氏・・・明け方、お隣さんの男の声がする・・・
 下々の民家が建てこんだ五条の家々にはさまれた乳母の家。そのお隣のまがきにひっそりと咲く夕顔の花・・・なあんて・・・乳母を見舞ったその足で忍び込んだのが夕顔の几帳の中・・・・この碑は河原町筋から少し西へ、五条の北にあります。ももりの住まいは中京、四条と五条の中間。高辻通りです。何だかうれしいなあ。
 

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 ももりの好きな六条御息所って、この辺りに住まいしたお方でしょうか。16才で東宮に上がり、娘を生んだが、20才で東宮と死別。源氏より7才年上。美しく、格式ばった誇り高さは、源氏の他の愛人に嫉妬となって降りかかる。後には死霊となって祟ったってんだから怖い。夕顔も物の怪に襲われて急死。

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 源氏物語の主人公、源氏のモデルは・・・何人かの男性を一緒くたに捏ね上げた???紫式部の創作のようです。モデルの一人、源融の屋敷跡といわれる本覚寺・・・こういうのは、スケッチをしようという気にはならないなあ。(No616)

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2008年6月 2日 (月)

ママチャリ源氏物語

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 源氏物語を、じっくり読んだ事もなく、大してあの時代に興味を持ったこともなかったももりが、今、俄然、目覚めて走り回っているのが、「源氏物語千年紀」 京都文化博物館 の会場でゲットしたパンフレットの10本のハイキングコース。もう、4本達成しました。といっても、中京住まいのももりですので、普段から自転車で走り回ってるところもあります。でも、改めて、パンフレットと首っ引きで走ってみると、そりゃあ、やっぱり面白い。
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 清少納言が定子に仕えるようになった、きっかけとか、年齢とかは、はっきりしないそうですが、定子がなくなる1000年ごろまでに10年間程、宮廷にいた、と、本は書いています。実際、この「日本の歴史 5」は、とても砕けてしかも強烈で、読み易い。著者は土田直鎮・・・東大の資料編纂をしてらっしゃる学者さんらしいですけど。
 紫式部が彰子の元へ入るきっかけは、源氏物語が評判になってかららしく、1005年とも、1007年とも言われるようで、清少納言の「枕草紙」は、既に世に喧伝されていた。「源氏物語」は宮仕えのうちに完成し、その後もずーっと彰子に仕えて長和年間に死んだらしい。道長がパトロンでもあり、妾という言葉を残した書き物もあるそうです。

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 スケッチは石山寺。紫式部が源氏物語をあらわしたという、薄暗い小部屋も見てきました。それよりも、ウーッとうなったのは、紫式部の真蹟という写経の一枚。式部は、琵琶湖に映る月の余りの美しさに感動し、お経の紙を引きちぎって想いを書き付けた。そのお詫びにと写経したものと解説がしてありました。まっこと、まっこと、当時のやんごとなきお方々の教養の高さは、一片のみずぐきのあとにすら・・・・と感心したものです。

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2008年6月 1日 (日)

悲運の皇后 定子  

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 5月28日に、中宮彰子のこと少し書きました。道長の長女、皇子も生んで華やかな一生を送った彰子。紫式部を得て、なお更に輝きます。一方、皇后、定子はまことに、まことに、はかない。もし、清少納言がクダクダと書いてくれなければ人々の記憶には残らなかったように思えます。話がすこぉーし長くなりますが・・・

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 冷泉、円融、花山、一条・・・・天皇は代わっていきます。彰子、定子の夫となったのは一条天皇。彼は、中々優秀だったといいますが、一方、先の冷泉天皇は狂疾、狂気の身を、ほしいままに藤原氏にあやつられた気の毒な天皇でした。神事の箱を開けさせようとしたり、古今の名笛を刀で削ったりは未だ子供っぽいにしても、道長の屋敷に火をつけようとし、避難する車の中で大声で、神楽を歌ったり・・・・
 その子、花山天皇も、時に激しく、狂的に執着したといいます。その狂疾が身を亡ぼしました。花山天皇の後宮には数人の女性がいましたが、子はなく、そのうちに懐妊した女性が8ヶ月の身重で死。天皇は悲しみのあまり出家を口にするようになりました。そこを道長一家。正確に言えば、道長の父、兼家と、道長達息子3人に付け込まれます。「自分もお供して、出家します」と、もちかけ、天皇が剃髪するや、ドロン。マンマと位を盗まれてしまったのが19才。在位わずか2年。息子、一条天皇は7才でした。一条天皇即位。11才で、4才年上であった定子が入内します。定子が皇子誕生のためとて宮廷より下がっていますときに、後ろだてであった兄がとんでもないハプニングで大宰府に流されます。
 そのハプニングというのがおかしい。花山上皇は狂疾ではあったが、女には中々、マメだったらしい。ある時、三の宮、四の宮と呼ばれる姉妹それぞれに想いをかけて通ったのが、花山天皇と、定子の兄でした。ところが、同じ女性に思いをかけたとカン違いから、手下どもが弓で天皇を射るという事態に発展。弓は袖に当たっただけで、内緒にはしていたものの、天皇に弓引いたとして、定子の兄は大宰府に流される事になりました。まことに、滑稽な事ですけれど、仕組まれたのかもしれません。身重の定子は、兄の罪をどのような思いで聞いたことでしょう。生まれた皇子は、聡明で評判が良かったけれど、若くして死に、結局、運命は全て、彰子に味方しました。一条天皇は定子を愛し、定子は、又懐妊。そして、内親王を生むときに死んでしまいます。時に25才。まことに、まことに、はかない。清少納言は、この悲しい状況には、まるで触れていないそうです。
 どうですか・・・・源氏物語はまるで、テコに合わないももりですが「日本の歴史 5」中央公論社 は、とても楽しく読めて、ももりにも理解できそうです。スケッチは「枳穀邸」、上は縮遠亭、下は傍花閣    「枳穀邸」は東本願寺と大谷家とが遺産相続をめぐって対立。長く公開していませんでした。今では500円で見られます。  

 

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