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2007年12月19日 (水)

ピカソ 正妻オルガ・コクロヴァの呪い

Hura007
 1918年と言えば、第一次世界大戦が始まったのが1914年。パリの絵描き達は次々と愛国心に突き動かされて戦場に去り、そして、すっかり変わって帰ってきました。画商のドイツ人、カーンワイラーは国外へ去り、アポリネールは戦傷死、最も親しく助けてくれたマックス・ジャコブは修道院へ入ってしまいました。ブラックも頭に負傷してパリに戻ります。スペイン人のピカソは戦場には行きませんでしたが、微妙な立場ではありました。第一次世界大戦後のパリはロシア熱に浮かされていました。1917年、ロシア革命起こり、皇帝退位、臨時政府が政権を握ります。ロシアの貴族たちは大挙してパリへ逃げ込みました。ディアギレフ・バレー団もその中にいました。ストラヴィンスキーの傑作「春の祭典」もパリで演奏されます。そんな中、ディアギレフ・バレー団の踊り子であった、オルガ・コクロヴァと出会います。束縛を嫌って独身を通していた36歳のピカソは、このロシア貴族の娘に遂に取り込まれました。オルガが、今までの女性に比べ、ピカソをすぐには受け入れなかったからだといいます。オルガは、バレーでも取り立てて優秀でもなく、絵と言えば部屋に飾るものとしか思っていませんでしたが、したたかな母親が後ろについていました。オルガの望んだのは、優雅な貴族家庭の再現でした。「コーヒを浴びるように飲んで雨のように小便たれてる」っていう事をピカソが気づくのは、早かった。アトリエで優雅に取り澄ましたオルガの傍らにはメイドが、だらしない服装のピカソの横には小犬が2匹、二人の間には共通の言語すらなかったのです。
 多くのピカソの女性たちに、オルガの嫉妬は病的になっていきます。マリー・テレーズが現れ、やがてドラ・マールが現れ・・・しかし、オルガはガンとして離婚を承認しませんでした。財産は半分取られ、逃げようにも、フランスの法律と強力な弁護士の熱弁には、ピカソも勝てなかったのです。オルガの息子ポールも、実に可愛らしく描かれたポートレートを残しているものの、ピカソの関心は子供にはなく、ポールは早くから麻薬と酒に溺れていきました。オルガが、精神分裂病で孤独に死んだのは、1954年。ピカソ73才でした(No629)

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コメント

あんまり我儘勝手に生活していると、こう言う風に孤独に死ぬのかしら?
夫婦なんだから少しは分かり合って、行かなくちゃって事ですね。何だか身につまされます(;一_一)
でも家には財産も無くそれはサッパリしたもので、だからくっついていなければ・・・

投稿: nyar-nyar | 2007年12月19日 (水) 18時51分

オルガさんが選んだことではありますが、どちらも不幸ですね。
前にドキュメント風のドラマを見たことがあります。

投稿: kazuyoo60 | 2007年12月19日 (水) 11時54分

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