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2007年10月28日 (日)

しばらく お休み・・・・

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 今、曽野綾子「哀歌」 新潮文庫 を読んでいます。この小説は毎日新聞に連載されていましたのであらましは知っているのですが、もう一度読み直してみたいと、本を買ってきました。日本、平和で、秩序のある国、日本。自分の意思で修道院に入った修道女の主人公はアフリカのルワンダへ派遣されます。そこは、カオス・・・全く異次元の世界でした。そこへ忽然と沸き起こってきたフツ族とツチ族の対立。狂気は、毎日がなり立てるラジオの声とともに高まっていき、遂に凄惨なホロコーストへと・・・。危険を目前に逃亡する国連軍。アナンは「要請された事項は、国連平和維持活動の範囲外」と返答しただけならまだしも、このことをこの国の大統領に通告した。一方の親方に、「さあ、いつでも、好きにおやりよ」と言ったようなもの・・・これは、ももりの怒りのコメントです。念のため・・・ 映画「ルワンダの涙」この映画、もし機会があれば是非、見て欲しい映画でした。ももりのブログ、2007年5月5日に載せています。 
http://yamaguchimomori.cocolog-nifty.com/blog/cat3196076/index.html 秋・・・少し ブログ お休みします。その内に又・・・元気で・・・デハデハ・・・(No602)

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2007年10月26日 (金)

愛することと愛されること  「エディット・ピアフ」

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 映画「エディット・ピアフ」 最後にピアフがみんなに語りかける。「愛しなさい」・・・女性へのアドヴァイスとして・・・「愛しなさい」若い娘に・・・そして、子供に・・・「愛しなさい」
 愛するのと、愛されるのと・・・これは大分違います。愛されることは勿論うれしいけど、はるかに嬉しいのは愛することですね。そうでしょう???愛してない人から愛されても・・・そりゃあ・・・もったいないけど・・・あんまり嬉しくもないし、困ることすらある。でも、自分が愛するのは・・・たとえ、相手がそんなに十分に愛し返してくれなくっても・・・きっと、幸せな事ですよ。
 娘時代、幸せな子供時代ほど、愛されて、ギブ アンド テイク どころか、テイク アンド テイクに慣れています。でも、母になると・・・そう、小さな赤ん坊は容赦なく泣き喚いて、要求だけを主張します。どんなに新米ママが眠くても、お構いなし。オムツがぬれたと怒り、お腹がすいたと怒り、眠いからと怒り、退屈したからお相手をしろと泣き叫びます。これは、ホント、結構つらい。母性愛なんて、簡単に言わないで下さい。でも・・・・ももりメは思うんですけど・・・この経験だけが、愛される幸せしか知らなかった女性が、愛することの喜びを知るようになる、ワンランク上の幸せを知るための試練なのではないかと・・・・若いパパにとって、家族はしっかり、そのひ弱い肩にかぶさってくるでしょう。でも、それに耐える事が愛する事を教える。・・・・たっぷり、愛された人ほど、タップリ愛せる・・・
 結婚は色んな形の愛を探す旅・・・あるときは耐える愛もある。ある時は、ひたすら消耗する愛もある。愛はバラ色・・・ばかりではない・・・「ラビアン・ローズ」・・・・・・でも、さあ・あ・あ・・愛しましょう。スケッチはナポレオンが埋葬されているアン・ヴァリッド  パリ(No601)

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2007年10月25日 (木)

マルセイユで見た夢

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 若かったなあ。20年ほど前のマルセイユでの一夜。ナポレオン3世が建てたというファロー宮殿で開かれた「ジャパンウイーク」に参加したことがありました。そこでは、日本文化が紹介され、お茶、お花、踊り・・・いろいろあって、ももりは書のパフォーマンス。南仏のダンスなんかも見せてもらい、豪華な食事。とっても可愛い少年たちが、両横に座ってくれて・・・あ・あ・あ・・・夢ってこんなんを言うんやろなあ・・・・先日来、ブログでジャンバルジャンと一緒にパリを彷徨い、ついに憶いは、マルセイユへ・・・
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 キャッ!!!ハズカシ!!!でも、海外では始めての経験で、前夜は良く眠れずハイになっていたのでしょうか。次の日に、シャガール美術館へ行って作品を見て、声を上げて泣きました。後にも先にも、絵を見て泣いたことは???思い出せません。
 マルセイユ。エドモン・ダンテスが長い航海から帰ってきて、恋人メルセデスに会いに坂道をかけ上がっていきます。坂の多い港町は「岩窟王」のお話そのままで、いつの間にか、目でエドモン・ダンテス・・・後のモンテ・クリスト伯を探していますと・・・・いる・いる・・・・アッチにもこっちにも、カッコええ若者が・・・・いる・いる・・・・うっとりと、まるで、メルセデスになったような気で、狭い路地を歩き回りました。やっぱり、夢中になって読んだお話の中で、イッチ面白かったのは「岩窟王」と「ああ・無情」・・・中学生の頃だったでしょうか。
 大人になって読み返して、面白さは何倍にも膨れ上がりました。後日、フランスを南から北へとパックツアーで北上した時、エックス街道を通りました。マルセイユから舞台がパリへ・・・・エックス街道をヒーローたちが北上します。途中、ももりたちもカオールという小さな村で昼食。そこの赤ワインが有名で・・・帰って本を見なおしましたら・・・なんと・・・落ちぶれた悪党が、カオールで宿屋をしており、仇を探してやってきたエドモン・ダンテスにたった一本残っていた赤ワインを出す場面があって・・・もおおうぅっ・・・嬉しかったなあ。「ももりメもこのワインを飲んだんや!!」
(No600)

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2007年10月24日 (水)

パリの娼館 映画「エディット・ピアフ」

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 スペインで個展をした時お世話になったマノロ夫婦が、なんかの時に交わした会話を興味深く思い出します。
「お前はあちらの角で立て。私はこちらの角で立つ」・・・これって、つまり、もし、マノロ氏が事業に失敗して路頭に迷ったら、奥さんのマリフェは、あちらの街角に立ってお客を拾う。こちらの角では、マノロ氏が立って・・・さああ・・・ヒモというか・・用心棒というか・・・??スペインの・・・ことわざでもないし・・・ジョークなんだろうか??
 「エディト・ピアフ」見て来ました。感動した!!泣いた!!
あの当時の娼館、画家たちも多く入り浸って素晴らしい作品を一杯残しています。先日、大阪の天保山のサントリー美術館で見てきたロートレック、有名なのは、なんと言ったってユトリロ、ピカソは娼婦を描いた頃が一番凄い青の時代。シュザンヌ・バラドン・・・ユトリロの母、彼女は私生児で、職業はモデル。あの当時のモデルって言う職業は娼婦と大して変わらないでしょう。でも、あの当時のパリの娼婦たちは、今の日本の小娘たちのセチ辛い売春とはイメージがちがうようです。
 エディト・ピアフの、食い詰めた両親が幼いピアフを預けたのは、祖母の娼館。そこには、愛したくてたまらない母性愛の塊りみたいな娼婦もいたし、客に、無理で異常なことをされて大怪我をする憐れな娼婦もいた。しかし、彼女たちは暖かい。教会にも行くし、子供をお風呂にも入れてもやる。どうやら、暴力団がらみでもないみたい。第一次大戦後のパリ。貧しい、虐げられた人々・・・芸術家も一杯うろついていたパリ。エコール・ド・パリと呼ばれる時代のパリ・・・貧しいけれど、どこか人が暖かい・・・やっぱり、パリは秋が似合う。スケッチは、ムーラン・ルージュのカンカン (No599)

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2007年10月23日 (火)

いも

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 やっぱり、民主党もあかんなあ・・・政治にはトント疎いももりメですけど・・・結局、対テロ対策には独自の法案を出せず、いや、出さず・・・又々、勝負を逃げた。まあ・・そんな事やろとは思てたけど・・・ 結局、万年野党で、なんにも役立たずの出たとこまかせ、口まかせで、給料泥棒を決めこんでる。あれ程サマワの派遣に「ホントに安全なのか」とか言って迫ってたのに、自分の法案はどうやら、もっと危険やっていうやないの。国連の言うことなら聞くって、以前は、国連の活動でも、武器持って行ってても、使うたらあかんとか・・・反対やったんやないの???給油かて、中国とかが、日本の代わりにやるとしたら???(No598)

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2007年10月22日 (月)

やっぱり 秋だから

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「レ・ミゼラブル」は、とても面白いコメントをいくつも頂きまして、改めて人々に親しまれていることを思いました。映画も、た・し・か・・・・ジャン・ギャバンガ演じたジャン・バルジャンのがあったと思います。原作は、勿論翻訳ですけれど、読むのには苦労してはしょってしまいます。裁判の記録とか、下品な隠語の使われ方とか延々と続いて、ももりの頭ではとてもついていけないんです。でも、パリ、やっぱり秋がパリには一番ふさわしい。もう少し、秋が深まって、日差しが落ちて、プラタナスの落ち葉がいっぱい散る頃になると・・・・メランコリー・・・あ・あ・あ・・・行きたいなあ・・・・ スケッチはノートルダムの入り口のツ・モ・リ(No597)

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2007年10月20日 (土)

レ・ミゼラブル 不幸な人々

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 「レ・ミゼラブル」を書いたヴィクトル・ユゴーという人についてちょっと調べてみました。
 ユゴーは1802年に生まれました。ということは、ルイ16世や王妃が処刑された時には、10才であったということになります。幼い彼の目に、おびただしい革命の流血は、どのように映ったのでしょうか。彼が世に出るのは早く、17歳で「アンリ4世像の再建」という詩で、1等賞を取って文壇にデビューしています。翌年には、ルイ18世から500フランの年金の下賜を受け、20才では、更に、ルイ18世から1200フランの下賜を受けていますから、文学界での地位はゆるぎないものとなったのでしょう。母は王党派、父はナポレオンの熱烈な崇拝者だったといいます。ちなみにルイ18世が王位に返り咲いたのは、ナポレオンがエルバ島に流されたからで、1814年、王政復古です。ユゴーは12才。エルバ島を脱走したナポレオンのパリへの帰還。圧倒的なナポレオン人気と小バカにされた王様、しかし、ナポレオンは100日天下の後、たちまち失脚・・・1824年には、ルイ18世は死に、王位は息子のシャルル10世に移ります。世の中はめまぐるしく、まさに事実は小説よりも面白かったでしょう。
 「レ・ミゼラブル」は、38歳頃から草稿が練られ、21年かけて完成した大作です。「レ・ミゼラブル」の一番の見せ場が、パリの市街戦の場面。マリウスが重症を負い、ジャンバルジャンに救い出される場面は、ユゴーは30才、リアルタイムの描写ということになります。
 「レ・ミゼラブル」を脱稿したのは59才。完成の直前、ワーテルローの古戦場跡を歩いています。ワーテルローの戦場は、未だ戦いの終わった状態のまま打ち捨てられていたらしく、ワーテルローの戦いそのものの経緯も克明に書いています。ワーテルローの戦いは、ナポレオンの百日天下の間のことで、ここに、マリウスの父親、ポン・メルシー大佐が登場するのです。大佐はナポレオンの傘下で活躍し、瀕死の傷を負いますが生還し、レジョン・ドヌール勲章を受けますが、彼こそマリウスの父親、ポン・メルシー大佐です。一方、戦場で、死者から、金目のものを剥ぎ取っていたのろうべきテナルディエ。この泥棒に助けられたと勘違いしたポンメルシー大佐からテナルディエのことを聞いたマリウスは、テナルディエを父の命の恩人と思い込んでいます。
 ユゴーは王家に庇護されて世に出ましたけれども、それが、裏目に出る日がきました。1848年の2月革命で王政は再び倒れ、共和政宣言がなされ、ナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンが大統領候補として選挙に出て、勝ってしまいます。たちまち、ユゴーは王党派、ルイ・ナポレオン帝政の反対者として投獄。しかし、12月11日、脱出しブリュッセルに逃げ、その後英国に住みました。「小人ナポレオン」という冊子を出版。大評判になったけれど、フランスでは出版されなかったとか。ナポレオン3世とは徹底的に対立します。しかし、ルイ・ナポレオンは有名な「セダンの降伏」・・・プロイセンのビスマルクに、部下の兵士共全員捕虜に・・・屈辱にまみれて、ナポレオン3世は歴史から姿を消します。ユゴーは1885年、83才で死にますが、その4年前にはピカソが生まれています。ホント・・・歴史って面白い!!(No596)

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2007年10月19日 (金)

秋の雨 にわかに旅心

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 ちゃぐままさんのブログ「レ・ミゼラブル」を見て、猛烈に旅心を刺激されました。けれど、この身は中京。外は静かな冷たい雨・・・こうなれば、もう、本と一緒に晩秋のパリへさまよい出さずにはいられない・・・
 「レ、ミゼラブル」一番の大舞台、パリの暴動は1832年、春、ということにユゴーは設定しています。思いは一気にその春のパリへ・・・どうぞ、ご一緒に・・・・
 バスティーユの牢獄が襲撃されてフランス革命が勃発したのは1789年。これは覚えやすいので、是非覚えてください。その時、ナポレオン20才。ルイ16世が処刑されたのは、革命勃発から4年後、王妃も同年処刑されます。王一家がタンプル塔に幽閉された時、一家は王夫妻、娘、マリー・テレーズ、弟、ルイ・シャルル、叔母エリザベートの5人でした。
1792年12月11日夜、父王、ルイ16世は革命派に連れ去られます。翌年、弟が、革命派の靴屋に同じ塔の中で住むべく引き離され、時々「あのバイコクドのババア・・・」とか、大声で言っているのが聞こえてきますが、やがて静かに・・・8月2日には母、マリー・アントワネットが連れ去られ、翌年、5月3日、叔母、エリザベートも連れ去られます。タンプル塔には娘が一人、王女テレーズが残され「タンプルの孤児」と呼ばれ、次第に忘れられていきました。
 革命政府は、王を処刑した後も、ギロチンをフル回転して、同志打ちや、仲間割れを激しくやっており、早くも、ロベスピエールが1794年の7月には殺されています。当時、オーストリアやイギリスが革命の隙を突いて、フランスへ攻め寄せてきており、全く戦争の仕方も知らない負け一方のフランス軍に希望の光となったのが、弱冠26才のナポレオン。ナポレオンが、議会を掌握するのが、1799年、クーデターによって第一統領となり、全権を掌握します。一方、ルイ16世の二人の弟、かつて、マリー・アントワネットと遊び呆けていたバカ弟たちは、ロシア皇帝のお情けでロシアのミタウに亡命しており、ルイ18世を名乗っています。ルイ17世はと言えば、いつの間にか、姿の消えた、あの、靴屋に育てられていた王子でしたが・・・
 やがて、ナポレオンが皇帝になり、フランスは一時の平安を得ますが、ナポレオンも没落・・・1821年5月5日にセント・ヘレナ島で死亡。メッテルニヒの「会議は踊る」・・・人々は急に王家の事を思い出します。1824年にはシャルル10世を祭り上げて、王政復古、しかし、露骨な反動政治で弾圧と統制、再び革命の火が燃え上がります・・・・1830年、パリの7月革命・・・そして、2年後、ジャン・バルジャンはパリのバリケードの中で、マリウスを救出・・・・続きはア・シ・タ  スケッチはオーストリア、シェーンブルン宮殿 (No595)

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2007年10月16日 (火)

チリモヤと映画「大統領の暗殺」

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 「チリモヤ」今朝、TVに映っていました。和歌山県で栽培されているんですって。この、チリモヤ、スペインにいた時、よく買って食べてました。ヨーグルトみたいで、ツルッとした滑らかな食感で、とても、気に入った。日本でも、よく探して、阪急百貨店とか、明治屋で、見つけては買って帰ってお友達と食べたりしてました。結構お高くて1個、2000円くらいだったか???でも、ちょっと傷みかけたのが500円くらいになっていて、チリモヤは、その程度の方がおいしい。ほんと、固いチリモヤは、全然美味しくありません。ちなみに、チリ産というのに当たったことがあって、それは、大きいばっかりで香りがきつく、おすすめしません。スケッチはチリモヤ
 昨日、駆け足で、「大統領暗殺」見てきました。ウ・ウーン  インタビューばっかりの構成で、ももりメは画面そのものの魅力を楽しみに映画館へ通うのですから、全く物足りない。着想も面白く、脚本もしっかりしてるけど・・・・航空写真で撮った、シカゴの映像くらいしか感動的な映像は無かったです。60歳以上ということで、1000円払って見ましたが、250円くらいは眠ちゃってた!!!あんなのならTVで、充分!!!金、カエセぇーッ!!!(No594)

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2007年10月15日 (月)

未だ「ピカソ 偽りの伝説」

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 先日来のピカソ、まだグズグズと、あっちの本、こっちの本と、手の中で回しながら読んでいます。
 結局、ピカソの絵って、その時々の女性と関わっている自分自身を描いているという事を知りました。・・・ピカソこそは徹底的な自画像の画家、自己撞着の塊りです。売春宿の女達から「青の時代」 新しい女性、フェルナンド・オリヴィエと出会ってバラ色の時代。彼女に飽きて、エヴァと恋愛。エヴァは、家庭的なおとなしい女性だったようですが、その時代はキュビスム。エヴァが結核で死にそうになっている時、ロシア人、バレリーナ、オルガ・コクロヴァと、これは、結婚。可哀そうに、エヴァは死んでしまいます。ところが、オルガ・コクロヴァは中々したたかで、結局、離婚するにも、財産はタップリむしりとられ、籍は、彼女が死ぬまで抜けませんでした。オルガの死は、ピカソ74才の時です。
 54歳で、マリー・テレーズと同棲。まだ、17歳であった彼女とは、徹底的なセックスを胆嚢したようで、乙女を陵辱するミノタウルスは、ピカソ自身を描いて、「青の時代」と双璧をなす傑作をたくさん残しています。しかし、マリー・テレーズも、肉体以外には、ごく平凡なスポーツ好きの小娘で、ピカソを満足はさせられませんでした。母親になった頃から飽きてしまいます。ピカソは、写真家で、シュール・レアリスムの知的な画家、ドラ・マールと恋愛。どちらとも家を持ちますが、彼女はヒステリー。無理もありません、正式な妻オルガは存在を誇示し、若い愛人マリー・テレーズも影の女です。彼女は神経を病み「泣く女」を何点か描かれています。
 62歳で、21才のフランソワーズ・ジロー同棲。しかし、ピカソは、もはや、男としての魅力で女性を組み敷く事はできませんでした。フランソワーズ・ジローは、ピカソを嫌って10年後に家を出ます。サディスティックなピカソに耐えられなかった、と、言ったようです。彼女との間には、子供が二人、クロードとパロマガ生まれています。71才で、妻に去られたピカソは、ジャックリーヌ・ロックと恋愛。彼女とは、オルガの死によって、80才の時に正式に、2度目の結婚が出来ました。そして、91歳で死ぬまで、焼き物や彫刻、絵画と好き放題の創作をしたのです。
 ピカソの本は、以前から何冊もあるのに、殆どをきっちり読んでいませんでした。なんでやろ???って???ともかく、面白くなかった。今回、そのわけが解りました。「ピカソ 偽りの伝説」は、絵の解説を全然しないで、ピカソと関わった人を徹底的にレポートして羅列しています。今までの本は、絵をクダクダと解説してくれて、わざと難しく言いまわして言っているのです。ピカソの絵なんて、解説する絵じゃありません。美学者とか、評論家とか、おエライ方は、簡単な言い回しは、どうやら沽券にかかわるとでも思ってる???みたいです(No593)

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2007年10月13日 (土)

若い方へ

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 スペイン語を再開したこと・・・皆様から嬉しい励ましをいただいて感激しています。ホント・・・若い方々へ・・・
ももりメはもう、66才、年が変わったらすぐ67才・・・ナンボ、ももりメが、頑張ったって80才まで生きるとして、楽しめるのは、たった14年。そう・・・12歳の理恵ちゃん、30才の美香ちゃん・・・56才の康子さん・・・若いって、ホント・・・うらやましい!!!!あなた方なら、それぞれ、80才まで62年、50年、康子さんだって24年間も楽しめるのよ。    さ・あ・あ・・・・グダグダ言ってないで、今、すぐ・・・・お始めなさい。そして、ウーンと頑張ってみるのよ・・・ネ(No592)

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2007年10月12日 (金)

語学って先生次第

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 昨日、15年ぶりのスペイン語の教室、大変楽しかったです。これなら、もう、先生さえ代わらなければ、生きてる間ズーッと楽しくやれそうです。昨日、わかったことがありました。それは、話す方は全然単語が出てこなくってダメだけど、耳の方は結構未だイケル。
 語学なんて、面白くするのも、つまらなくするのも、先生次第です。それを、確信させてくれた先生が、昨日のブログに書いた、アラセリ先生でした。今でも、京都にお住まいだそうです。お会いしたいなあ。こちらは随分フケちゃったけど・・・
 ももりが、中、高、大学と学校で学んだ期間に、語学が面白いと感じた事は、一度もありませんでした。でも、50才くらいで、スペイン語に目覚め、ついでに英語にもお目覚め・・・語学こそは、教師次第。ともかく、日本語は全く使わない。女優か、男優のように、ボディーランゲッジです。闊達な会話、豊富な話題と話術・・・・そんじょそこらの日本人の英語教師とは違う???・・・・日本人の語学教師さん方、お許し下さい・・・・・テーマの面白さに好奇心を刺激されて、徹底的に原文を読む・・・・こんな単純なことにつきます。次の授業で、読んでいったものを、面白おかしく話を広げながら、解釈してもらう。でも、語学は易しすぎたら気が抜けたビールみたい。難しいメのほうが良いけれど、難し過ぎると投げ出してう。そう、生徒の方も、随分気難しいんです。
スケッチはバルセロナ サグラダ・ファミリア(No591)

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2007年10月11日 (木)

スペイン語 再開します

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 もう、15年ほども前になります。カンカンに入れ込んでスペイン語をやってた時がありました。スペインでの個展という目的も、目の前の人参みたいにブラ下がっていましたが、何よりも私が夢中になったのは、まだ若いアラセリ・コッラル先生の授業の素晴らしさでした。生のニュース・・・広い範囲から拾い上げた、文学、映画、科学・・・・・を読む授業です。1週間ごとに3から5枚の、新聞や雑誌のコピーが渡されます。そのどれを先生がとりあげるかは、当日にならないとわからないのですが、その話題の豊富なこと・・・・ルイス・ブニュエル、 エヴィータ 、 タンゴの歴史、  ラテン文学、 時にはエロチックな話題もありました。プリントを渡されて、ナントカ、1週間で読みあげ、傍らで、ラジオのスペイン語やTVのスペイン語もしっかり見ました。 
 一番最初、日本イタリア会館へスペイン語を習おうと訪ねましたら、先ず面接を受けろと言われ、その時は、もう、半年ほどは独学で、やってたのですが、「あなたは、もっと下のクラスへお入りなさい」と言われました。ところが、ももりの時間は、水曜日、一番難しいクラスにしか合わなかったのです。「眠るためだけにでも来ます。この日しか、時間がないのです」   先生の言葉は「眠らせないわよー・・」って感じ。もちろん、何にも解らなかったのですが・・・
 さああ、授業が始まりました。最初は100パーセント理解できませんでした。でも、いただいたプリントを徹底的に辞書で調べ上げ、判じ物のように次の週までに、予習をしたのです。全く、あの時期に、腰も足も弱ってしまった・・・朝、さあ、片付けなくっちゃ・・・と思いながら、スペイン語を、フト手に取ると、もう・・・あっという間にお昼。さああ、買い物にも行かなくっちゃ・・・・あっという間に、夕方です。コケの一念。それを5年間続けましたら、ほとんど、不自由しないほどには、しゃべれるようになりました。6年ほど経って、スペイン人の絵描きとその ご主人が京都にやってきて、ももりの家に泊めて、京都を案内した頃・・・・あの頃が、ももりのベスト・・・その後、先生が代わられて・・・・全く、つまらない、退屈な授業で、定冠詞とか、不定冠詞とか、単数、複数の変化・・・・そんなもん、関係あるかよ???まったく、授業のある日を忘れた事なんて無かったのに、待ちに待って次の水曜日に備えていたのに・・・・けっきょく、払ったお金の事も忘れて止めてしまいました。
 今日の授業は???そして、アラセリ先生は今は????さああ・・・行ってきます。絵はバルセロナ(No590)

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2007年10月10日 (水)

ピカソとヒットラー

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 ピカソといえば「ゲルニカ」  「ゲルニカ」が描かれたのは1937年ですから、第二次世界大戦の始まる4年前です。この、ゲルニカの町の攻撃は、既に、第二次世界大戦の前哨戦でした。
 スペインの王政が倒れたのは1936年。選挙による人民政府ができましたが、王政側の立役者として登場したのが、フランコ将軍です。人民政府戦線と王政派は、激しく対立します。この年、ヒットラーとムッソリーニは手を結び、ヒットラーは世界制覇のさきがけとして、スペインを猛攻しました。戦艦ドイッチェラント号を、モロッコへ持ってきて、兵士を乗せた輸送機や資材を、どんどんスペインに送り込んだのです。何万人ものイタリア軍やドイツの外人部隊が、マドリードに集結しマドリードは戦場になりました。スペインの内乱です。この時、国際義勇軍で戦った作家は、ヘミングウエイや、アンアンドレ・マルロー・・・一杯名作を残しました。映画もたくさん作られています。「誰がために鐘は鳴る」「陽はまた上る」・・・・「外人部隊」「モロッコ」もたしか・・・・??若き日のゲーリー・クーパー・・・ステキだった・・・違ったっけ???
 フランコに加担したヒットラーは、スペインのゲルニカ村を爆撃、この内戦は、諸外国には無視され、結局、フランコが、1938年には政権を握り、40年間の独裁制を敷く事になります。
 スペインへ個展をしに行ったとき、個展の世話をしてくれたマノロ氏と、下宿のオーナーだったヌーリア・ガレータ女史は「フランコをどう思いますか」のももりの一言で、2時間以上の大激論。片や、フランコは、第二次世界大戦に不参加を貫いた救国の英雄、片や、スペインをすっかり後進国にしてしまった失政の人・・・・もっとも、猛烈な早口のスペイン語で、すざまじい気迫に押され、オロオロしながら、面白く拝見しましたが、サッパリ内容はわかりませんでした。  
 「ゲルニカ」を描いた当時、52歳のピカソが、チョコザイな青二才のヒットラーに、怒り狂った事は想像にかたくありません。ヒットラーはピカソより8才年下です。ピカソは「ゲルニカ」を描き、多くの絵を売って、人民戦線政府を援助しました。しかし、パリにいた芸術家たちにも、戦争の気分は高揚してきます。「クリスマスには、もう、家に帰っているだろう」と行って出て行った絵描きたちも、戦争で、あるいは死に、負傷し、廃人のようになって、パリに帰るまでの戦争の間、ピカソは、取り残され、いくじのない、卑怯者の立場にあります。敵国、ドイツ人の画商もピカソの元から去りました。スケッチはバルセロナ、グエル公園・・・もう、15年も前のもので、ちょっと古い(No589)

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2007年10月 9日 (火)

ピカソを嫌いな人 好きな人

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 「ピカソが好き」と言われるとギョッとする。まして、絵を描き始めて日が浅い人に言われると、妙に威圧感を感じて、いじけてしまう。ピカソ・・・あんまり、「好き」なんて、気楽に言ってほしくないなあ、と思いながら、それでも、黙ってしまう。
 ピカソは、ダリなんかと違って、あくまで、目の前の現実を描いた。大股開きの娼婦だって、ヴァイリンだって、その時々の同伴者の女だって・・・例え、形はキュビスムとかで、目がアゴの下にあったって、とりあえず、心象世界ではない。マガマガしいばかりの、その時々の相手や自分自身を描いている。例え、神話を描いたって・・・・乙女を陵辱するミノタウロスは、ピカソ自身なのだ。
 ピカソに画商がついたのは、パリに出た19才、レ・マニャックが、「毎月150フラン払うから、絵は、全部引き取る」と言った。当時の150フランは普通の生活をして、1年半という。人に寄食したり、宿を転々とする極貧から一気に、メイド付きの生活に変わった。その後、マックス・ジャコブという生涯の崇拝者を得て、ピカソの金の心配はまずまずなくなった。その後のピカソは、社交界への、ルートを探し、ジャン・コクトーと出会い、アポリネールという詩人に、世の中へ喧伝してもらい・・・・ともかく、達者にしたたかに、憎らしく生きた。「ピカソが好き」ということは、そのすべての、フンプンたる臭気、狂気を含んだ精液の匂いを好きという事だろう・・・・と、いうももりメも、ピカソは、好きではなくても、見ずにはいられないヒント一杯の実験作なのです。(No582)

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2007年10月 7日 (日)

ピカソ 偽りの伝説   A・Sハフィントン 高橋早苗訳

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 「ピカソ 偽りの伝説」 草思社・・・・この本は長い間、ももりの本棚で、居眠りしていました。新聞の書評をよんで、買い求めたツンドク書だったのです。でも、青の時代に興味を持って、読み直してみたら・・・・こんな面白い本が眠っていたなんて・・・・・読み直して、以前、途中で投げ出してしまったわけがわかりました。膨大な人物が登場して、把握できないのです。例えば、エヴァ・・・ピカソが愛した、善良な、我慢強いエヴァ・・・本名、マルセル、が結核になって死が迫っています。それなのに、ピカソは冷酷にも、新しい愛人をつくり、エヴァは見捨てられます。その同じ頃、親友ブラックに以前の自分の恋人を紹介して、ブラックは、その事実を知らずにオメデタク結婚・・・するのですが、その女の名前が、又々、マルセル・・・・ちょっとぉ!!!もう少し、わかりやすく説明してよ!!!!
 先日の「ピカソ展」で、買ってきた「女達が変えたピカソ」 木島俊介 中公文書・・・や、本棚の何冊かと首っ引きで、読んでみました。全く、ピカソは「女達によって変えられた」なんてオトコじゃありません。冷酷、自分勝手、小心で神経質で卑怯。そのくせ、傲慢・・・大変複雑です。少なくとも、優しく小市民的であろうなどとは、コレッポッチも思わなかった自信過剰の人物。ところが、ピカソの周辺には、ひざまずくオトコたちが次々と現れるのですよねえ
 しかし、絵を描くももりからみますと、ピカソは絵画の領域をオッソロしく拡げました。憎しみ、ひがみ、恨み、凶暴、もちろん、マガマガしいまでのセックスに対する執着。14歳から売春宿の入り浸っていたというピカソは、しかし、本当に女性を人間として愛したか・・・尊厳を持って愛したか、は疑問です。まあ・・・・ひっきりなしに女性にあこがれた。あこがれて手に入れた女性は数え切れない。娼婦も、マダムも、芸術家も・・・・絵を描くことだけで、世間を見返し、屈服させた、壮大なオトコの世界です。 
 ビル・ゲイツが、史上最高の価格で、落札した絵もあったはず。・・・・やっぱり、ピカソ・・・・オ・ト・コの中のオ・ット・コ・・・やなあ。スケッチは、貧相すぎて・・・今、新しい絵が無いというのが情けない・・・
 ピカソについては山口ももりのHP   歴史お気楽うんちく・・・ピカソについてはちょっとうるさいももりです・・・・
 にも、書いています。クルクルとクリックして下へ行ってくださいマセ(No581)

http://www.geocities.jp/wgwxw444/701rekisi/index.html 

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2007年10月 5日 (金)

青の時代 ピカソ展2

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 ピカソの「青の時代」、19歳、1900年にパリに出て、1904年、23歳で、バラ色の時代に入るまでのピカソの、心の風景ってどんなものだったのでしょう。
 生まれた時、「オギャア」って泣かなかったので、そばにいた叔父が、タバコの煙を鼻に吹き込んだ、といいますが、その叔父が17歳のピカソに学費を出して、マドリッドのサン・フェルナンド王立美術学校に入れます。しかし、ピカソは、怠学、そして退学、バルセロナへ逃げ帰ります。そして、仲間たちにもあおられて、いよいよパリに出てくるのですが、その時は、もう学費どころか、生活費の援助もありませんでした。バルセロナから一緒にパリへ出てきたのが、バルセロナのユダヤ系お金持ちのボンボン、カルロス・カサジェマスです。 
 二人は、すぐ、パリの芸術家のたまり場でもある娼館に入り浸るようになります。フランス語が全然しゃべれない二人は、そこでスペイン系のモデル、ジェルメーヌ・ガルガロとオデットに出会います。やがて、ボンボンのカサジェマスは、ジェルメーヌに恋をします。オデットと、カップルであったはずのピカソが、どうやらジェルメーヌと寝た・・・と、ユトリロに、怪しげな手紙を書いているとか・・この、ユトリロは有名な、モーリス・ユトリロの戸籍上の父・・・・モーリスの母、シュザンヌ・バラドンと結婚し、私生児を引き取った奇特な戸籍上の父・・・・、ユトリロの母で自身も私生児なら、誰の子かもわからないと公言するモーリスを生んだ、シュザンヌ・バラドンの事も書いてみたいですけど・・・・それは、後日・・・
 神経を病んで、自殺を口走るカサジェマスを連れてピカソはスペインに戻りますが、カサジェマスは、パリに去ってしまいます。そして、友人達を招いてパーティーを開き、その席上で、ジェルメーヌを射殺・・・ジェルメーヌは死にませんでしたが、カサジェマス自身は、その場で、頭を撃ち抜いて死んでしまいます。両親の悲しみと、・・・多分、呵責に苦しんだ・・・ピカソの青の時代です。
 後日、ジェルメーヌは、彫刻家、ラモン・ピチロットと結婚しますが、1940年代、すっかりお金持ちになっていた60才台のピカソは、恋人、フランソワーズ・ジローを連れてモンマルトルを歩き、とある粗末なアパルトマンへ入っていった。ピカソは、ベッドに横たわっていた、歯の無い老婆と言葉を交わし、枕元に、お金を置いて部屋を出た、といいます。「彼女は若い時、とてもきれいで、私の親友をひどく悩ませた」と、ジローに語ったといいます。その人こそは、ジェルメーヌ。彼女が、1948年に亡くなるまでピカソは援助の手をさしのべたそうです。ピカソとは関係ない絵は、間もなくある「四明展」に出すつ・も・りのももりメの絵(No580)

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2007年10月 4日 (木)

ぬすみ酒

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  断っておきますが、アル中でもないし、酒乱でもない。依存症ですらありません。でも、ももりメはキッチンドリンカーです。実は、実は・・・世の男性方、イエイエ、酒天童女たちよ。お酒が、ホントに美味しいのは、お料理を作りながらチビリ、チビリ・・・???グビリ、グビリ・・・ 
 むっかしい姑とのなっがぁーい嫁姑戦争を生き抜きました。その時以来ですけど、姑が逝って10年以上たってるのに、姑のせいにするのは良くありませんね。姑がお膳の前に座ったら、もう、飲みたくも、なんともない。今でも、ももりはかけつけ3杯が、気ぜわしいけど、食事に入ると、もう、ほとんど飲みません。と、いうより・・・出来上がっている???まあ・あ・・・アペリティフの、ちょっと量が多めって感じ。台所での、盗み酒は、そりゃあ、もう、サァイコォーッ!!!口の中で、ジュッと言いそうな、上げたての天ぷらの端切れとか、お刺身のシッポとか・・・・贅沢なものは何にもいらないし、ほんのチョッピリ・・・・秋!!!ビールだってワインだって、日本酒だって、焼酎だって・・・オリーブの実とか・・・ブルーチーズとか・・・生ゆばとか・・・・スケッチは安曇野(No579)

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2007年10月 3日 (水)

ピカソ展 美術館「えき」KYOTO

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 展覧会のはしごはシンドイ。今、展覧会のシーズン。友人達の個展やグループ展をはしごして歩いていますけど、でも、はしごより、もっと疲れるのが「ピカソ」 何度も、見ているし、大方わかってるって思うのに、どこかでやってると聞くと、マタマタ見にきています。
 見終わって、売店にあった開高健「ピカソは ほんま 天才か」って言う本を立ち読みしてきました。ウ・ウーン・・・・・・開高健は言ってました。彼の真価は、青の時代まで・・・後は反省のない、やりっぱなしの・・・なんだったか・・・何しろ立ち読みなもんで・・・ 
 ピカソほどでは、全くない???ももりメごときが・・・チョコザイな・・・・こと言いますけど、画商がお隣の部屋で、待っていて、どんな絵だって、ヘコヘコして持って行くっていう日常やったら、このももりメだって、描きっぱなしで、大量の未完成品や、思いつきだけのラフスケッチを大量生産するやろなあ。だあれも、持っていこうとも言わないからこそ、反省しては、考え直し・・・描きなおし、描き加え、結果、替わり映えのしない、大したことない粗大ゴミを作り出してる・・・・・
 死の迫った91歳のピカソは、多くの女性性器を描いています。展覧会会場では、評論家がいろいろ言ってました。「生きるエネルギーを女性たちから得た」とか・・・・ウ・ウーン・・・評論家たちって、自分は描きもしないくせに、なんだかんだとヘ理屈を付けヤガル・・・ご免アソバセ・・・お行儀の悪い・・・そんな、深刻なもんじゃないでしょう。過去・・・せぇんど、楽しんだ楽器みたいな・・・・色んな女の思い出が・・・なあんて、ピカソよりも、ピカソを持ち上げすぎてる評論家が嫌いな、ももりメでした。スケッチは、ほうの実なんですって。上高地のホテルで見ました (No578)

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2007年10月 2日 (火)

雨女か お天気おばさんか

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 今朝はさわやかな秋日和。軽い白雲が流れてキラキラした光が秋そのものです。
でも、昨日、私達が訪れていた上高地は霧雨でした。穂高も焼岳も真っ白な霧の中でナアーンにも見えませんでした。高気圧背負って歩いているんだって、いつも強気の同行人も顔色なし。
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 娘の日々、山登りに夢中で上高地は何度も来ていました。京都から、準急「ちくま」に乗って、松本へ、松本から、バスで上高地へ出て槍や穂高へ。でも、あの当時、頂上しか見ていなくて、ゆっくり上高地を散策するってことはありませんでした。大正池すら知らなかったのです。そして、やっと、やって来ましたら・・・・前日までは、カンカン照りの夏日よりだったのに・・・昨日は、もう、真っ白な霧の中・・・まだ、紅葉には少し早く・・・そして、今日、TVでは、ピッカピカのアルプスの映像が・・・・でも、大正池から明神池まで歩いてきました。12キロくらいでしょうか(No576)

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