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2007年4月30日 (月)

ももりの行く手を遮ったダリ ダリ展Ⅱ

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 ダリ展で、ヴィデオを見てハッとしたことがありました。それはダリがキャンバスに向かって突進、ぶつかって出来た穴を指差して、何か言っている場面。思えば、この場面こそ、若かりしももりに絵を止めさせてしまったのでした。 
 子供の時から絵が好きで、よく賞なんかをもらっていました。大学受験も、勉強ばっかりなんか・・・絵が受験科目にある、ということで選んだのです。ところが、当時、世の中は抽象・・というより、訳のわからない絵ばっかりがもてはやされる時代。天井からブラ下がって、絵の具の入ったバケツを蹴っ飛ばしたり、からだに色を塗ってゴロゴロ・・・そのうちに履きつぶした靴やバイオリンのこわれたのをまっ二つにして張り付けたり・・・重い気持ちで出かけた美術館にはピンクの便器がライトを浴びて展示されていましたね。タイトルが「泉」・・・評論家たちも「これがわからなくてゲージュツ出来るか」って言ってましたね。今では、そんな風潮もすたれましたが、既成の絵画をぶっ潰すということが最命題だったのです。
 ある日、自分に100枚の白い紙を与え、100枚、頭の中だけで絵を描くことを強要・・・・そして・・・・もう、アカン・・・才能が無い・・・と絵を描くのを止めた・・・若き日のももりでした。書をやって30年。やっぱり絵を描きたいと公募展に戻ったのは50才を過ぎてました。この、ダリのキャンバスを突き破って、これぞ芸術・・・っていう行為。これこそがももりの若き絵への情熱を消し去った・・・ウー・・・ウ・ウーン・・・今では、やっぱり抽象を経て絵画は変わった・・・と思います。自然のままを模写するよりも、自分の中の世界・・・自然であっても、どう捉えるか???マタマターーー・・・もう、難しいことは言いっこなし。やっぱり絵って面白いんやからぁ・・・スケッチはサントリー美術館の周辺(No584)

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2007年4月28日 (土)

「ダリ」展見て来ました

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大阪港、天保山は京都からは遠い。あんまり行きたくないのに、なんだか、義務感みたいなのに急かされて「見とかなくっちゃ」と、出かけました。ダリ・・・あんまり好きな画家ではないなあ。スペインのフィゲラスで本物の「ダリ美術館」も見ているけど・・・あんまり・・・感動って言うものとは違う。ビックリは一杯するけど・・・技術は凄い。ダリは1904年、スペイン生まれ。ピカソより23年後で生まれています。ピカソが、非情な女性遍歴を繰り返したのに比べ、ダリはガラ・リーナ一人。と言うより、ガラなくして、ダリは生きてはいけなかったのでしょう。エログロナンセンスに陥りかねない彼の絵は、しばしば激しく攻撃され、それを、頑強にはねつけ、ダリを守ったのはガラです。大体、絵描きさんの女房ってのは嫌われている人が多いけど、これは、無理もない。絵描きを世間的無知に仕立てておいて、値上げ交渉や、商売人との折衝は嫁にっていうくらいでないと絵なんて描けないんですから。スケッチは天保山(No583)

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2007年4月27日 (金)

壬生狂言やってます そのⅢ

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壬生寺は平安時代創建。円覚上人が壬生狂言を創造したとあります。ももりの亭主は壬生で生まれ、壬生で育った男ですが、彼が小学校の時、壬生寺の本堂は炎上しました。大変な火災だったといいます。ちょっと頭の足りない女の人が本堂の床下に住み着いており、冬の寒さで火を燃やしたんだとか。ご本尊は和尚さんが背負って逃げて無事だったといいます。ももりも、幼かった子供達をいつも「カメさん 見にいこ」と言って、乳母車に乗せて遊びに連れて行っていました。今では、境内には、老人ホームも出来、新撰組ブームで小さな池に入るには料金も要るようになって、何か残念です。無造作に積み上げてあったお地蔵様も、今では、仏塔のようなのに貼り付けられて空高く居座っています。昔の方が遥かに良かったなあ。Burogu_002
狂言「ぬえ」はひひ退治で、レンジャー部隊みたいな綱渡りが凄いですよ。出し物はその日にならないとわからないんです。「講」の構成員で行なわれているそうで、仕事の合間に皆さん、演じていらっしゃるとかで、予定は組めないんだそうです。「土蜘蛛」や「紅葉狩り」だったか???なんか、いろいろ、もう・・・ホント 面白いですよ。(No582)

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2007年4月26日 (木)

壬生狂言やってます そのⅡ

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 「大黒狩り」だいこくかりと読むのでしょう。妻帯は禁じられていますが、僧がナイショで妻を持っています。京人形の可愛い子供までいますが、世間にはヒタ隠ししています。人が来たら本尊さんのお厨子の中へ隠しています。それを知った卑しげな下郎、何とかお嫁さんを見たいとアレコレ画策します。お経を上げていたらお厨子がユラッ・・・役人まで連れてきますが、なんとか、隠しおおせます。見つかった際の、ブスのお面をつけさせるのがいじらしい。慌ててそのお面を逆さにつけてしまうなんて、大爆笑。人の恋路を邪魔するな!!!って、笑ってオ・ワ・リ(No581)

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2007年4月25日 (水)

壬生狂言やってます

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 ももりは壬生の住人です。只今、壬生寺にて、壬生狂言をやっています。29日まで。午後1時から、6時頃まで、最終日29日は夜の部もあるそうです。壬生狂言は無形文化財です。室町時代の狂言の原型を保っているといいます。パントマイムで、無言劇です。仏教の説話を民衆にわかりやすく教えた狂言の原型が残っているんですって。もう、何度も見ている「カンカンデン」・・地元では、壬生狂言とは言いません。「カンカンデン」または「カンカンデ」の方が通ります。見れば見るほど面白くなるのが不思議です。マタマタ見て来ました。有名な「ほうらく割り」は、節分の時、素焼きの皿、「ほうらく」に無病息災を祈って願い事を書いて、壬生寺に納めます。それをこの狂言で割ってもらって厄落としをするっていうもの。だから、カケラをもって帰るなんていけません。とんでもない。Burogu_006_1
 子供達が小さかった頃に見た時は、今ほどほうらくの数も無かったと記憶しています。今では、舞台が見えないくらい積み上げています。あらすじは、市場への一番乗りを競った、括弧売りとほうらく売り、すこいことを考えたのがほうらく売り。一番に来て、場所取りしながら眠ってしまった括弧売りを出し抜いて、まんまと一番乗りの権利を得ます。ところが、腹の虫が収まらないのが括弧売り。あっという間に、ほうらく売りの並べたほうらくを棚から突き落としてしまいます。ほうらくが割れて、あたり一面は土煙がもうもう・・・暫くは目もあけていられませんよ。ゼヒゼヒ・・・Burogu_007_1(No580)

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2007年4月20日 (金)

こんなに美しい地球の上で

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 武器を持たなかったら、弱い人間・・・武器が進化してしまった事が怖ろしいです。こんなに美しい地球上で、どうして???韓国の青年のメッセージに震え上がりました。自分をキリストに、置き換えています。「お前たちは何でも持った。高級車も、金のネックレスも・・・」やっぱり悪魔って本当にいるんですね。でも、この事件、国籍とは離して考えるべきでしょう。誰の心の奥底にも隠れているかもしれないサタンの性・・・本当に怖ろしいです。前の日曜日、淀川河畔の写生会に参加。お尻の下で地面がユッサユッサ・・・地震だったのです。なんだか・・・本当に怖い。そうそう、クロアチアからの絵ハガキ・・・ボツボツ届き始めたようです。2週間はかかったみたいでした。(No579)

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2007年4月17日 (火)

かの地の郵便事情 クロアチア便り

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 クロアチアの首都ザグレブから絵葉書を投函したのは、4月2日。まだ届いていないようで、どの人からも反応がありません。旅先から、スケッチをして絵葉書を、古くからの友人に出すのは、もう20年以上続いたももりの楽しみです。本人の帰国よりも早く届く旅もあれば、10日くらいかかることもあります。郵便事情というのは端的にその国の事情を表わしているようです。ハンガリーから出した絵葉書は届きませんでした。届かなかったのは、EU加盟で物価が上昇していた時期で、投函したほんの、3日ほど前に切手代が値上がりしたということでした。旅行社のスタッフすら知らなかったのです。
ソ連の若者と長く文通を続けていこともありました。ソ連時代のハバロフスクで知り合った考古学博物館の研究員の若者でしたが、彼との手紙はゴルバチョフのペレストロイカで国が荒れた時に途切れました。「今、私の国はおばかです」って書いてきていました。彼は日本語をラジオで独学しているということでしたので、ももりも、日本の風習、お正月やおひな祭り、お節句などを、色々読みやすい日本語でお知らせしていました。郵便事情が極端に悪くなり、切手すら盗ってしまうとか聞きましたが、彼がその後どうしたのかはわかりません。結核で、サナトリウムから手紙がきたことも、「ボクの花嫁は出て行ってしまいました。ボクは今、修道僧のような生活をしています。人生ってそんなものさあ」と書いてきた時もありましたが・・・ヴァレリーという綺麗な若者でした。ハバロフスクの朝、ホテルの前からスケッチをしていたら日本語で喋りかけてきたのです。
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 左の写真はクロアチア、ザグレブ。18階建ての、ももりが泊まったホテルの裏側の家、ガラスには銃弾によって開いたに違いないと思われる丸い弾痕が放射上に拡散しています。主無き庭園には桜に似た白い花が満開でした。独立戦争の傷ではないかもしれないけれど・・・至るところに酷く落書きがされていました。ザグレブからの絵葉書は届くのでしょうか(No578)

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2007年4月13日 (金)

外国を抱いて・・・国境とは クロアティア

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 バルカン半島は火薬庫・・という言葉は第一次世界大戦の時の言葉ですが、バルカンは鍛冶の神、火山を司っった神だったと記憶しています。おっそろしく粗雑で大雑把な地図ですが・・・ももりのアタマの中そのもの・・・たくさんの激しい国々が国境を接しています。歴史の気まぐれで国境線は何度も引きなおされました。  
 セルビアの首都、サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたのが、1914年6月28日。オーストリアはおっかなびっくりで、こぶしを振り上げて、セルビアに宣戦布告。及び腰の戦線布告だったが、セルビアは受けて立ち上がった。それぞれ同盟関係のある国々を引き込んで、あっという間に戦火は拡大。オーストリア側にはドイツ、トルコ、ハンガリー・・・対して、日本、英、仏、露、伊、米・・・とまあ、世界30数か国が4年半・・・国力をかけて殺しあった。飛行機、戦車、毒ガス、潜水艦と言った武器が始めて登場し、戦死者は兵士だけでも、800万人、民間人は数え切れないといいます。その戦後処理で、フランスが余りにもドイツを苛酷に扱って、戦後賠償金を取り立てたため、ドイツ人の不満がヒットラーの台頭を許してしまった・・・と、本では読みました。
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 クロアティアはボスニア・ヘルツェゴヴィナをいだくように、国境を接しています。山中のいたるところから、滝を噴出していたプリトヴィッツェ国立公園。まだ、観光シーズンでないので、人影も無く、静まり返ったこの美しい国立公園も、独立戦争時は、セルビアに占領され「瀕死のユネスコ遺産」の登録されていたそうです。(No577)

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2007年4月 9日 (月)

美男美女の国  スロベニア

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 どっかで、人種が混じるほど美人美女が増えると聞いた事があったけど、スロベニアの国って美人が多い。金髪、碧眼でスラッと足が長く、背が高い。それに、あんまり顔を作ってなくて、素朴な感じが大好きでした。今回の旅の国々の歴史の多様さには、ホントに”ウーン”とうなってしまいます。ギリシャ、ローマ、マジャール人、ヴェネチィア、ハンガリー、ナポレオン、ハプスブルグ・・・、ドイツ、イタリア・・・様々な人種がやってきて混血しています。従属と被征服者の苦しみを知りぬいた多民族国家、ユーゴスラヴィアが、再び民族ごとに分かれて独立した国を建てたい、というのが、あのユーゴ内戦でした。当地では、内戦という言葉は聞かれず、独立戦争と言っています。クロアチアと違い、スロベニアはユーゴからの独立に際し、準備万端整えて対処したために、電気、水、通信などの基幹部は比較的ダメージを受けなかったそうで、立ち直りも早く、ONPも高水準だといいます。
 この旅に出る前に読んだ山崎佳代子「解体ユーゴスラヴィア」・・・3月2日のブログ・・・は、セルビアのベオグラードへ、戦火を逃れて命からがら逃げてきた人々からの聞き取りですので、スロベニアやクロアチアは加害者側ということになります。どうしてセルビア人がターゲットになったかというと、セルビア人は、オスマントルコと対峙していたオーストリア・ハンガリー帝国が、トルコから逃れた難民のセルビア人を、国境沿いに屯田兵のように、配置したため、人口の割りに土地の占有率が高かったといいます。つまりセルビア人が占有している土地は、他の民族よりも遥かに広いとか・・・人口の増加率も高いらしく、民族の生命力みたいなのが旺盛だといえるでしょうか。旧ユーゴの軍隊もほとんどがセルビア人だったと言います。この旅行の前まで、何にも知らなかったももりが付け刃で、生意気なと思われそうですが・・・やっぱり、歴史って・・・知らなければいけない。そう思うのです。スケッチはスロベニアのリュブリャーナの三本橋・・・リュブリャーナ旧市街(No576)

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2007年4月 7日 (土)

カインの末裔がさすらう地・・・か??ボスニア・ヘルツェゴヴィナに45分

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 イタリア半島の対岸をずうっと南下してドブロブニクに至る道路が一部、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土を通っています。45分だけそこを通過しました。尤も、30分間はスーパーで買い物をするというトイレ休憩です。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは税金がかからないとかで、安いんだそうです。買い物は苦手で、あまり、興味もないももりはスケッチ。アドリア海沿岸は、赤いレンガの屋根に白い壁が美しく、イアリアあたりの風景と全く同じ感じです。ところが、山側は荒涼とした岩山が延々と続きます。「あの山の向こうは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」とガイド嬢は言いました。神の呪いの土地か???土という物がない土地に、樹木は密生できません。点々とまばらなカルストの岩塊に、潅木が、カビのようにしがみついているという感じです。ふと、カインの末裔は、こんな荒地すらも、争ってかち獲ったのか・・・と、旧約聖書を思い出してしまいました。弟を殺した罪で、永遠に不毛の土地をさまよわなくてはならなかったカイン。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境地帯は、セルビア人と最も激しく戦った土地です。独立戦争の傷跡が、まだ随所に残っています。下のスケッチはプリトヴィッツェ国立公園への道(No575)
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 今、沿岸の島をつないで橋を建設中とのことで、その高速道路が出来たら、外国の領地を通過しなくても、一直線にドブロブニクへ行けてしまうようになるそうですが、この道こそは通りたい・・・哲学の道・・・です。

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2007年4月 6日 (金)

年老いた公爵婦人・・・クロアチア

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 スロベニア、クロアチア、45分間だけボスニア・ヘルツェゴヴィナにいたという、忙しいパック旅行から帰ってきました。クロアチアの印象、大雑把ですが、年老いた公爵婦人・・・今はちょっと零落していますが、過去の栄光の誇り高く、何者にも媚びない、動じない・・・という感じです。 
 クロアチアが旧ユーゴスラヴィアから独立するために戦ったのは、ホンの10年程前。19991年から1995年でした。クロアチアから逃れて、難民となったセルビア人約30万人、そのうちクロアチアに帰還したのは、8、6万人。つまり、まだ故郷に帰れない、あるぃは、もう死んで還れない人が22万人以上もいるということでしょう。
 紀元後、部族単位で南下したスラブ人が、ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人に分かれて定着したといいます。ギリシャに殖民され、ローマ帝国に飲み込まれ、ハプスブルグが興れば、ハプスブルグに属し、オスマントルコにも耐え、ナポレオンすら統治したという、その時々の強国に蹂躙されながらも、10世紀にはクロアチア王国が興り、第1次大戦後も王国を建国したといいます。第2次世界大戦ではヒットラーの支配下にあって傀儡政権が作られ、そのために、敵国、イギリスやアメリカに、激しい爆撃を受け、貴重な文化遺産を失いました。つまり、日独伊防共協定側二あって、日本とは味方同士として連合軍と戦っていたということになるのでしょうか。かっての戦友???ということか??日本人は亡国の悲しみを知りません。22万人以上のセルビア系住民を追い出して出来たクロアチア。ユダヤ人のイスラエル建国といい、クロアチア、スロベニア・・・ユーゴスラビアから生まれた新しい国々・・・亡国の悲哀と苦しみを知るゆえの非情と、民族独立の願いの激しさは、日本人の甘ぁい理解を、拒絶しているようです。スケッチはトロギール(クロアチア)のロボロ大聖堂(No574)

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